日曜日、夕方、選挙と散歩——。
テレビの選挙速報などを見た後、頭を仕事に切り替える。
五月の連休明けから引っ越しでバタバタし、それから歯医者にも通っていたのだが、ようやく通常モードに戻りつつある。仕事部屋の本が片づくのは九月くらいか。
落ち着かない日々が続いていたせいか、地味な随筆が読みたくなる。
天野忠の『余韻の中』(永井出版企画)の「時の流れ」を読む。
《風邪をひいて三日つづけて勤めを休んだ。
その間中、雨が降ったりやんだりした。こっちもねたり起きたりした。もうすぐ退職の手前で、ずるけ休みのように思われるのが癪と思うが、どうも躰の方で無理せんでもええやないかと調子を下げているようでもある》
この随筆の日付は一九七一年五月。この年、奈良女子大の図書館の仕事をやめている。
「自適」という随筆では、勤めをやめてひと月後の心境を綴っている。
《悠々ではないが、自適の暮らしをしているのが肩身が狭いとは私には思えない。何とか喰えれば、何もひ弱な神経をつかって、世間様の中で揉まれる必要はないと思うのだが、といって、喰えなくなれば、そして躰の方の辛抱がきくうちなら、私だってその嫌な世間様の中へもう一度お辞儀して入れてもらわねばならんことは嫌々覚悟しているのだが》
この秋、わたしは五十歳になるが、たぶん、五十代になったら仕事も減るだろう。今まで通り働けるかどうかもわからない。仕事が減ったら、生活レベルもそれに合わせて縮小する。すこしずつ蔵書を売り、なるべくお金をつかわない暮らしをする。のんびり楽しい日々を送るための工夫をする。
それでも週一くらいは外で酒を飲みたいし、喫茶店にも行きたい。年に二、三回、国内を旅したい。「悠々ではないが、自適の暮らし」を目指したい。
それは覚悟というよりは、心の準備のようなものだ。