今月十四日、渡辺京二著『夢と一生』(河合ブックレット)が刊行された。生前最後の語りおろし。
冒頭の「熊本での子ども時代」でこんな話を語っている。
《熊本では上通というのがいちばんの繁華街で、その上通からちょっと切れ込んだ路地に、上林(かんばやし)という地名があって、ぼくはその上林町で育ったんです。上林暁って小説家がいるでしょう。彼は五高(旧制第五高等学校)生の時、小説を書きだして、そのころちょうど上林町に下宿していたからそれで上林というペンネームにしたわけです》
五高といえば、上林暁だけでなく、梅崎春生、木下順二も卒業生である。
渡辺京二は河合ブックレットの版元の河合文化教育研究所の研究員だった。わたしも二十代のころ——九〇年代前半、河合文化教育研究所(「文教研」といっていた)の手伝いをしていたことがある。講演会の受付をしたり、シンポジウムをまとめたり、ちょくちょくそういうアルバイトをした。
十年以上前の話になるが、その後『些末事研究』を作る福田賢治さんに渡辺京二の本をすすめられた。文教研つながりで名前は知っていたが、本は読んだことはなかった。読んでみたら自分の政治観とちょっと近いかもしれないと……。
ぐだぐだしているところ、余白や遊びの部分がないと息苦しい社会になる。今の世の中はどんどん窮屈な方向に突き進んでいるのではないか。
『夢と一生』の中で渡辺京二さんは、戦中に軍国少年だったこと、戦後、熱心な共産主義者になったことにたいし、「二度までも同じ間違いをしたんだな」と告白している。
戦中の渡辺少年はアジアが一つになる理想のコミューンを夢見て、「あの戦争」を「欧米の資本主義からアジアを解放する聖戦」と信じた。しかし敗戦によって日本の帝国主義が誤りだったと知る。戦後、共産主義に傾倒したのも理想のコミューンを求めたからだ。
《軍国主義から共産主義者へ変身した自分は、実は何も変わっていなかったと。生活の根拠なしに、ある理念から別の理念に移っただけだったと》
では理想の社会を夢見るのは「誤り」なのか。たぶんそう簡単には言い切れない。いつの時代にも一定数の理想主義者がいて、彼らの活動によって社会が改善されてきたところもあるだろう。
いっぽう(右派とか左派とか関係なく)理想もしくは正義を希求する過程で異端分子を排除しようとする急進勢力が猛威をふるうことがある。人類の歴史を眺めていると、どうやら人の生態には悪人を磔にして石を投げる、火あぶりにすることに歓喜し、熱狂してしまうスイッチみたいなものがあるようなのだ。
この問題については渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社、二〇一六年)の「二つに割かれる日本人」でも語っている。
《また長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしてもその邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです。古くはキリスト教的な千年王国運動から、毛沢東の文化大革命に至るまで、地獄をもたらしただけでした》
こうした「誤り」に陥らないための対処についても『夢と一生』で論じている。この続きはいずれまた。