晴れの日一万歩雨の日五千歩の日課は、天気関係なく一日五千歩にしていたのだが、三月になったら元に戻そうとおもっている。今も平均すると一日八千歩(室内は計測せず)くらい歩いている。
歩くこともそうだが、外出時間を増やすのは精神衛生によい。よく眠れる。
杉並郷土博物館の『中西悟堂生誕120年』のパンフレットを見ていたら、交遊関係のところに石川三四郎、辻潤、新居格の名前があった(他にも詩人、作家の名前は多数あり)。
一九三四年三月十一日、中西悟堂は「日本の野鳥の会」を創設した。第一回の探鳥会に中村星湖も参加していたことを知る。中村星湖は釣りの本も書いている(未入手)。一八八四年山梨県南都留郡河口村(現・富士河口湖町)生まれ。筆名に「湖」の字を付けたのは河口湖の近くで生まれたからだろうか。
中西悟堂は古本屋でよく見かけたが、ほとんど野鳥関係の本だったので手にとらなかった。金沢出身ということもこのパンフレットで知った。一八九五年生まれ、亡くなったのは一九八四年。享年八十九。
悟堂の『野鳥と共に』(巣林書房)は一九三五年刊。パンフレットには徳富猪一郎(蘇峰)が同書を日日新聞(後の毎日新聞)の「日日論壇」で絶讃したことがきっかけでベストセラーになった——と記されている。
悟道が井荻町に居を移したのは一九三〇年前後、それまでは千歳村烏山(現・世田谷区)にいた。
井荻に引っ越した理由は天徳温泉(その後、天徳湯に改名。二〇一七年七月廃業)があったから。天徳温泉は東京女子大のすぐ近所にあった。
《烏山の住居には風呂がなく、悟道は、春から夏にかけては、井戸の水をかぶるか、近くの小川で体を洗い、秋から冬にかけては銭湯へ通っていた》
烏山から西荻の天徳温泉までは約八キロあったが、悟堂はこの銭湯が気にいり、何度となく訪れたらしい。おそらく徒歩で通っていた。
九十年ちょっと前の話だが、悟堂は三十代半ば——当時、彼は無一物の生活を自らに課していた。烏山の住民が悟堂のような暮らしぶりだったわけではない。