土曜の昼、西部古書会館。福原麟太郎著『野方閑居の記』(新潮社、一九六四年)の英文学者の大和資雄宛署名本百五十円。線引き有。『野方閑居の記』は家に四、五冊あるかも。この日、福原麟太郎著『天才について』(毎日新聞社、一九七二年)も買った。『天才について』は講談社文芸文庫(一九九〇年)と収録作がほぼ同じ。ただし単行本は「対談 師を語る」(聞く人・外山滋比古)が入っている。
福原麟太郎が住んでいた野方は高円寺から近い。沿線はちがうけど隣町である。歩き慣れてくると距離が近くおもえる。野方に行くと肉のハナマサで買物する。
最近は東京メトロ丸ノ内線の新中野駅方面もよく散歩するようになった。途中までは桃園川緑道を歩く。車が通らない道を歩いているほうが疲れが少ない気がする。
東高円寺駅からすこし先にスーパーの三徳、新中野駅まで行くと肉のハナマサがある。
野方も新中野も急に雨が降ってきたとき、バスで高円寺に帰ってこれるのもいい。
隣の町まで歩いて買った肉や野菜を料理する。なぜかいい仕事したような気分になる。
一日一万歩(雨の日以外)の日課——なるべく東西南北どの方向でもいいから隣の町まで足をのばそうと心がけている。同じ歩数でも町内をぐるぐる回るより、すこしでも遠くまで歩いたほうが達成感がある。
自分の体感を把握する手段としても散歩は有効なのではないかとおもっている。歩くことで心身を調律する。
歩いているとき「(この先、自分は)何ができて何ができないか」とよく考える。家ではそういうことはなるべく考えないようにしている。本を読んだり、パソコンに向っていたり、体を動かさずに思索に耽っていると「日本中至るところの街道を調べたい」「古典から現代に至る街道に関する文献を読みたい」みたいなことを夢想してしまう。
しかしすぐ疲れる五十代の肉体は頭で「できる」とおもったことを全て実行するのは厳しい、というか、無理だ。時速四キロで歩く。その体感や時間の感覚を元に何ができるかと考える。たいしたことはできないが、すこしずつやるしかない。