先週、神保町散策。神田伯剌西爾でマンデリン。新刊書店、古書店をまわる。
悠久堂書店の店頭ワゴンで『別冊太陽 大正・昭和の鳥瞰図絵師 吉田初三郎のパノラマ地図』(平凡社、二〇〇二年)を買う。
初三郎の年譜、一九一二(明治四十五)年が興味深い。関西美術院の鹿子木孟郎院長が「多彩な才能を持ちながら洋画修業に専念できなかった初三郎」にたいし、「洋画界のためにポスターや壁画や広告図案を描く大衆画家となれ」と指導した。この助言が転機となる。初三郎、二十八歳。
翌年、京阪電鉄の「京阪電車御案内」を作成する。たまたま京都を旅行中の当時の皇太子(のちの昭和天皇)の目に止まり、「これはきれいでわかりやすい。東京に持ちかえって学友に頒ちたい」と絶賛。京阪電鉄は「京阪電車御案内」を皇太子に数部献上する。そのことを飛報で知らされた初三郎は「図画報国」の信念を抱き、鳥瞰図絵師の道を歩む。
初三郎、もともと洋画家を目指し、鳥瞰図で才を開花させた。おそらく最初から地図作りに取り組んでいたら、まったく別の画風になっていたにちがいない。二十八歳の初三郎に「広告図案」をすすめた鹿子木も慧眼だった。鹿子木は「かのこぎ」と読む。
鹿子木孟郎は一八七四(明治七)年十一月、岡山生まれ。一九四一年四月没。
三重県立美術館のサイトに「津の鹿子木孟郎」(荒屋敷透)という記事があった(「友の会だより」一九九〇年十一月十五日より)。
鹿子木は一八九六(明治二十九)年九月、三重県尋常中学校(現在の津高校)の図画の助教諭として赴任した。
鹿子木孟郎の兄・益次郎が同中学校の舎監をしていて、その縁で助教諭になったようだ。益次郎は孟郎が絵を勉強するための援助をしていた。
鹿子木に「津の停車場(春子)」(一八九八年)という作品(油彩)もある。津中時代、鹿子木は鉛筆画の臨本(教科書)も作っている。
吉田初三郎に絵の指導をしていたころ、 鹿子木孟郎は三十七、八歳。今の感覚だと若くおもえるが、明治末だとすでに大御所みたいな感じだったのだろうか。
三重県立美術館の鹿子木孟郎の図録を日本の古本屋で注文するかどうか迷っている。