レコードを擦り切れるほど聴く。本に穴が空くほど読む。デジタルの時代にもそういう感じの言い回しがあるのか。散歩中、そんなことを考えていた。
すこし話はズレるが、イントロが短く(なく)、いきなりサビから始まる曲が増えた。文章指導でも「最初に結論を書け」という教えがある。ライトノベルだとあらすじがタイトルになっている作品も多い。
わたしはなかなか本題に入らず、ぐだぐだ遠まわりして、しかもオチがないような小説や随筆が好きなのだが、そういう作品は今の主流ではない。世の中には一定数、主流や流行に背を向ける傍流好きの人がいる。わたしもそうだ。
五十五歳の今おもうのは擦り切れるほど聴いたレコードや穴が空くほど読んだ本はたくさんあるわけではない(人生の時間は限られているので)。でもだからこそ、それらは自分の宝になる。好きだから何度も聴いたり、読んだりしたものもあれば、惰性というか安心感を得るために聴いたり読んだりしているレコードや本もある。
中村光夫著『自分で考える』(新潮社、一九五七年)に「精神の速力」というエッセイがある。わたしにとって、中村光夫はそれこそ穴が空くほど読んだといえる評論家である。
《柳田国男氏が、現代人の口の利き方はむかしに比べてよほど早口になったといい現代語の生煮えな混乱のひとつをそこに求めていましたが、これは確かに興味のある事実で、僕等は早口、早書、早読を早飯、早糞にまさる美徳に数えなければならない乱世に生活しています》
そして数行後、中村光夫はこんな言葉を綴っている。
《或る書物の要約を素早く把む才能は、これを精読して深く理解する根気より、現代ではずっと尊ばれます》
《いつも忙しく自分を表現し、また他人の表現も慌ただしく受取る習慣が、いつのまにか僕等の精神に或る不自然な姿勢を強いていないかということです》
「精神の速力」は七十年近く前のエッセイである。今の世の中はさらに加速している。
わたしは二十歳前後に古本が好きになり、近年は街道歩きもはじめた。若いころから世の中のテンポと合っていなかった。
ゆっくり本を読み、ゆっくり歩き、いっぱい寝る。それが今の自分の望みである。急いだところで終わりが近づくだけだという諦めもある。