2025/10/27

お伊勢の森

 日曜、西部古書会館。大判函入の『街道を旅する』(日本通信教育連盟)を買う。「東の街道」「西の街道」の二冊セット。四キロくらい。重い。五百円だった。宿場町の写真を見ているだけで時を忘れる。奥付に刊行年が記されてなかったが、国会図書館のデータベースなどで「一九九六年」ということがわかった。同じく日本通信教育連盟が作った『街道歴史散歩』という冊子の刊行も同じころか(この冊子も奥付に刊行年なし)。日本通信教育連盟は「ユーキャン」の前身。元は「東京人形学院」(一九五四年設立)だったと知る。ユーキャンに社名変更したのは二〇〇六年六月。
 ほか『中野区の史跡』(中野区教育委員会、一九九四年)、『源氏絵 華やかな王朝の世界』(出光美術館、二〇〇五年)など。中野区の郷土資料の冊子、ひょっとしたら家にあるかもとおもったが、なかった。白黒だけど、史跡の写真も掲載。蛍光ペン(黄色)の線引あり。二百円。
 鷺宮の不動堂の庚申塔(青面金剛庚申塔)は「新青梅街道となかの道(庚申塔の前の道路)との三叉路に建てられていましたが、新青梅街道の拡張工事のため現在地に移されたものです」とあった。一八〇〇(寛政十二)年に上鷺宮村の庚申講の人たちが建てた。
 鷺宮はちょくちょく散歩しているが、新青梅街道のほうは行ってない。近いうちに散策したい。

 西部古書会館、物語絵巻の図録もよく出る。空から描いたような絵がけっこうある。

 日本シリーズの結果を見て、夜、早稲田通りを散歩する。お伊勢の森のバス停まで。早稲田通りも風がよく通る道だ。このあたりで高円寺から阿佐ケ谷になる。「お伊勢の森」はバス停以外にお伊勢の森児童公園にその名を残している。

 お伊勢の森のバス停の後、馬橋公園に寄る。馬橋公園はかつては国立の気象研究所だった。そのせいかどうか高円寺界隈では空が広く星がよく見える。コロナ禍の前まではそんなに夜の公園を歩いてなかったので気づかなかった。喫煙所もある。なみの湯の煙突(光る)が見える場所がある。

 一九八九年秋、高円寺で最初に住んだアパートはなみの湯の近くだった。アパートがあったところを通る。三十六年前。町の変化、自分の変化、どちらも感慨深い。

2025/10/26

ドラフト

 十月二十三日(木)、急に気温が下がる(都心の最低気温十一度)。このところの睡眠時間のズレは季節の変わり目のせいだろう。
 夕方からプロ野球ドラフト会議。真中満監督のガッツポーズ(勘違い)は十年前。ついこの間のことのようにおもえる。

 テレビのドラフト番組がはじまる前に掛け布団のカバーを洗濯する。コートを外に干す。この秋初の長袖のヒートテック(っぽいシャツ)、腰に貼るカイロをつける。窓を開け、エアコンの暖房を試運転する。

 最近のドラフト関連の記事で「天井が高い」という言葉を目にした。荒削りだけど、(うまく育てば)大化けしそうな選手といった意味だろうか。以前は「伸びしろ」という言葉がよく使われていた。いや、今もよく使う。
 ドラフトの結果はすぐにはわからない。下位指名、育成契約の選手が予想以上に活躍することもある。

 今年のペナントレースは本塁打数二十本以上がセ・リーグは五人、パ・リーグは四人、打率三割以上はセが二人、パは一人だった。防御率一点台の投手がセは二人、パは四人もいた。
 ドラフト上位で野手を獲得する球団が増えたのは、投高打低の影響もあるかもしれない。僅差の試合が増えたことで打つだけでなく守備や走塁の価値も上がった。

 翌日午後二時半、阿佐ケ谷散歩。馬橋稲荷神社に寄る。小雨が降り出す。駅南口の噴水広場で阿佐谷ジャズストリートをすこし見る。五人編成(クインテット)のバンドが演奏していた。八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷のちカルディ、帰りはガード下を通る。

 家に帰って『娼家の灯/面影 川崎長太郎新聞連載随筆集』(講談社文芸文庫)読みはじめる。老いに関する自己省察が面白い。

「老居閑日」の一節——。

《晩飯後テレビを見る時間となるが、以前あんなに力のはいった、野球や角力が野蛮な、同じことの繰り返しみたいで段々つまらなくなった》

 かつては面白く思えたことがつまらなくなる。これも老いの兆候か。一九七九年、神奈川新聞の連載。長太郎、七十七歳の記。

 この先、わたしもそうなる予感がある。未知だった老人の感覚がすこしずつわかるようになってきた。
 十年十五年前くらいの自分の文章を読み返すと、興味がとっ散らかっている。ただ、そのときどきの関心のカケラのようなものはずっと残っている。

2025/10/21

週十里

 深夜、早稲田通りを散歩して馬橋公園。真っ暗な中、誰かがギターを弾いている。演奏はつっかえつっかえだったけど「川を見に行こう」といった感じの歌詞が聞こえてきた。オリジナルなのかカバーなのかはわからない。わたしも川を見たい。

 十月十八日(土)、午前九時ごろ、目がさめる。ブリュワーズ対ドジャースのリーグ優勝決定シリーズを見る。一回表大谷翔平投手が三者連続三振の後、その裏に大谷翔平選手が先頭打者ホームラン。ここで打ったらすごいなとおもっていたら、本当に打った。二本目のホームラン、味方の選手たちが「信じられない」みたいなポーズで頭を抱えている姿も印象に残った。「まさか、もう一本打ったりしないよな」とおもっていたら三本目……。
 相手の投手も失投といわれるような球を一球も投げていない。すごい、すごいけど、現実感がない。

 試合を見終えて西部古書会館。先週の日曜日に買った分もまだ読んでいない。先週は『江古田文学』特集「辻まこと 没後四半世紀」(二〇〇一年冬号)、『芭蕉の生涯展』(山寺芭蕉記念館、一九九六年)、『歴程の軌跡展』(いわき市草野心平記念文学館、二〇〇八年)などを買った。帰ってきて夕方まで二度寝。寝ても寝ても眠い時期が続く。

 あいかわらず図録ばかり買っている。意識が散漫なとき、図録の頁をめくる。何かを調べるとかでもなく、ただ見ている。文章を読む。絵を見る。音楽を聴く。自分の中でどこか重なっている。

『芭蕉の生涯展』の山寺芭蕉記念館は山形市にある。JR仙山線の山寺駅がもより駅。同パンフの「一日十里」(森川昭)というエッセイを読む。
 江戸の旅人は一日十里(約四十キロ)くらい歩いた。
 芭蕉が伊賀、大和、近江、大垣、名古屋を漂泊する『野ざらし紀行』の旅に出たのは一六八四(貞享元)年、四十歳。『おくのほそ道』の旅は一六八九(元禄二)年。四十五歳。この旅でも一日十里近く歩いている。
 芭蕉は四十半ばにして、いきなり一日十里歩けるようになったわけではない。ずっと歩いていた。歩くことが当たり前の生活だった。あと当時の粗食(食習慣)は長距離歩行に適していたという話をどこかで読んだ。

 わたしは毎日一万歩(雨の日は五千歩)を日課にしている。一万歩で七キロくらい。用がなくても歩く。そのうちコンビニやスーパーまでの歩数、家から公園や神社まで何歩くらいかわかるようになった。今つかっている万歩計は一週間分の歩数も表示される。週五、六万歩。十里くらいは歩いている。

 気分がのらないときでも歩いているうちに体が軽くなってきて「もうすこしいける」とおもえてくる。この感覚を仕事にも活かせないかと考える。

2025/10/13

西へ

 歌枕への興味から土屋文明著『万葉紀行』(筑摩叢書、一九八三年)を西部古書会館で買った。もともと一九四三年に刊行された本で何度も復刊している。『続・万葉紀行』(筑摩叢書、一九八三年)もある。

 十月九日(木)、三重に帰省。小田急で新宿駅から小田原駅へ。小田急に乗っている間、東海道の宿場のどのあたりで降りるか考える。

 JR小田原駅から東田子の浦駅で途中下車。同駅に降りたのは人生初だ。家を出たときはまったく降りるつもりはなかった。富士山は雲がかかっていて見えなかった。
『万葉紀行』でも田子の浦(田児の浦)の章がある。土屋文明は清水駅で降りている。

《田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は零ける》

 わたしは東田子の浦駅から柏原海岸のほうに向かった。歌枕の「田児の浦」の場所は今の田子の浦と同じなのか、そうでないのか。そうでない説もいろいろある。このあたり陸路は難所が多く、船で移動し、海上から富士山を見たのではないかという説もある。
 東海道そのものが古代中世近世と経路が変わっている。現代に至ってもそう。

 そのあと旧東海道を歩く。途中、合の宿柏原を通った。車の交通量多し。

 夕方、JR吉原駅に到着する。田子の浦港周辺をすこし歩く。岳南電車に乗りたかったのだが、またの機会にする。浮島ヶ原の北にある根方街道も歩きたい。

 新幹線の駅——「なぜここに?」とおもう駅がいくつかある。新富士駅もそう。東海道本線+身延線が合わさる富士駅が新幹線の駅だったら、利用者はもっと増えるのではないか。気になってインターネットで検索したら宗教絡みの情報(真偽不明)が……。
 JR吉原駅から在来線で静岡駅まで行き、途中下車。駅近くの金券ショップで新幹線(自由席)のチケットを買い、名古屋駅へ。この日は寄り道せず、郷里の鈴鹿の家に帰る。

 十日(金)、母と港屋珈琲でモーニング。だし巻き卵のサンドイッチ(プラス百円でトーストから変更できる)が絶品だった。家の掃除。昼、歌行燈鈴鹿店に行く。桜海老のうどんのセット。前日の疲れが残っていたので家でごろごろする。テレビで自公連立解消のニュースを見る。連立二十六年。二十六年という年月を長いと見るか、そうでもないと見るか。

 十一日(土)、朝八時台のバスに乗ってJR関西本線の加佐登駅に行く。交通系ICの関係で亀山駅で一度改札を出て入り直す。
 JRの小田原駅から東田子の浦駅で降りたときもリモートで精算した。いつになったらこのシステムは改善されるのか。

『万葉紀行』には「大和から伊勢への大道は、万葉時代には鈴鹿すなわち加太(かぶと)と阿保の二つがあった」と記されている。

《鈴鹿加太は伊賀の柘植から伊勢の関に越えるもので、後の鈴鹿峠は万葉の時代にはまだ開かれてなかったとのことであるが、阿保は伊賀の阿保から伊勢の一志郡河口に越えるもので、今は青山峠と呼ばれている》

 関西本線は亀山駅から柘植駅までの間に加太駅を通る。万葉のころのルートと近い。
 柘植駅で草津線に乗り換える。草津線の電車が来るまで二十分以上あったので駅の外に出る。柘植駅は三重県で最初に開業した駅らしい。ちょっと意外である。
 柘植駅の外、小雨で霧が立ち込める。柘植、いつも霧。寒い。柘植は東海自然歩道、大和街道などが通っている。このあたりは横光利一が少年時代を過ごした地でもある。横光利一文学碑、横光公園あり。あと芭蕉公園もある。

 柘植駅から草津線に乗ったところ、曇り空にもかかわらず、後から座った乗客がいきなり日除けのブラインドを下ろした。柘植駅〜草津駅間の車窓を楽しみにしていたので「すこし開けていいですか」とお願いする。

 草津駅から新快速に乗り、大津駅で途中下車し、京阪のびわ湖浜大津駅まで歩く。昼前だったが、大津祭の曳山などを見かけた。琵琶湖を見る。東海道本線と京阪の乗り換えは石山駅(京阪石山駅)のほうが楽なのだが、大津をすこし歩きたかった。
 三条京阪駅から出町柳駅。それから叡山電車で一乗寺駅。恵文社一乗寺店の「ノアの50年」。編集工房ノアの創業五十周年イベント。わたしも記念冊子に執筆した。涸沢純平さん、山田稔さんのトークイベントを聞き、そのあとの打ち上げも参加した。

 夜八時台の新幹線(のぞみ)で東京に帰る。二十分後のひかりまで待とうかと考えていたのだが、ホームに止まっていたのぞみが空いていて座れた。座ってすぐ熟睡してしまい、起きたら静岡駅だった。

2025/10/08

三十六

 高円寺に移り住んだのは一九八九年十月中旬。かれこれ三十六年。干支三周。若いころの社会不適応は、年をとり、すこしずつ改善してきた自負があるのだが、今度は時代不適応になりつつある。無人レジで同じ商品のバーコードを二度読み込み、店員を呼んでやり直すみたいなことをしょっちゅうやってしまう。インターネットで何かを予約する——そういうのも苦手だ(なぜか途中から先に進まなくなる)。

 それでも五十代半ば(来月五十六歳)までどうにかこうにか生きてきた。年をとるにつれ、自分の凡庸さを受け入れ、淡々とした日々が送ることに喜び……とまではいかないが、そんなにわるくないとおもえるようになった。

 自分が常に進歩や革新性を目指す人間だったら、三十歳前後で行き詰まっていたにちがいない。同じことをくりかえす。一見、退屈そうなことの中にも何らかの面白味はある。
 同じ本やレコードを百回くらい読んだり聴いたりしても飽きない。日課の散歩にしても行き先は数パターンでたいてい同じ道を歩く。でも飽きない。

 若いころから何度も読み返している山本周五郎著『青べか日記』(大和書房、一九七一年)に「金銭について」というQ&A形式の文章がある。

 勤倹貯蓄について訊かれ、周五郎は「美徳でもなんでもないと私は考えます」と答える。
 美徳とはおもわないが、否定もしない。貯金だろうが何だろうが、その人が情熱を持って打ち込んでいることがあるなら、他人の評価は余計なことだ——というのが周五郎の意見である。

《たとえば蚤のサーカスというのがありますが、蚤をあそこまで訓練するということを考えると、だいたいならば、その馬鹿馬鹿しさにあきれるだろうと思います。この場合、爪に火をともす生活と、蚤のサーカスをこしらえることは、決して区別すべき問題ではないんで、人間がある一つのことに情熱をついやすということになれば、それは金を貯めようと蚤のサーカスをつくろうと同じだと考えます》

 有益か無益かはどうでもいい。自分が面白いとおもえることに打ち込めるかどうか。ただ、趣味を続けるにも金がいるし、健康も大切である。だから仕事もすれば節約もする。節酒もする。

 二十代半ばの不遇だったころの周五郎は「遊べ、三十六、急ぐな。いくらでも遊ぶが宜い」(「青べか日記」)と自分に言い聞かせるような言葉を日記に書いている。「三十六」は周五郎の本名清水三十六の「三十六(さとむ)」。

「遊べ」「急ぐな」のあと、しばらくして父に金を借りている。そこもよし。

《昨日は東京から本屋を招いて蔵書を売払った。八拾円の金が手に入った。借金を支払えば残りは僅かである》

 三十六青年はしょっちゅう本を売っている。親近感がわく。 

《金が欲しい 食える丈の金欲しい》 

 名著である。

2025/10/03

新宿まで

 月末しめきりの原稿を一本書いて、次の仕事に取り掛かる前に頭を切り替えたくて東高円寺まで散歩する。途中、天祖神社に寄る。涼しい。歩いているうちに体が軽くなってきたので前から気になっていた青梅街道のひとつ南の道を散策することにした。新渡戸文化学園の南、杉並区和田三丁目から中野区本町六丁目あたり。杉並区と中野区の区境がある。そこからさらに南に行くと善福寺川と神田川の合流地、東京メトロ丸の内線の中野富士見町駅がある。

 地図は持ってこなかったが、新宿方面に歩いていけば、どこかで神田川に辿り着くだろう。その先は青梅街道に出てバスで帰るか、そのまま新宿まで歩いて電車で帰るか。どちらでもいい。

 青梅街道のひとつ南の道はとくに名前はない。でも道幅が旧街道っぽい。昔の参道なのかもしれない。歩いているうちに鍋屋横丁の手前まで来た。もう一本南に行けば、十貫坂もあるが、そのまま東に進む。
 居酒屋が何軒かある。ヤマザキショップ中野本町はコンビニだけど、昔の個人商店みたいな感じだ。そのまま東に行くと本町卓球場、中華料理店……。住宅街だとおもっていたが、意外と店がある。
 しばらく歩くとパンダのある広場があった(家に帰って地図を見て、名前を知る)。そこから道がすこし斜め(南東)になり、なんとなく東に向う。東京メトロの中野坂上駅界隈を通り、神田川(相生橋)に着いた。
 東京メトロの中野坂上駅周辺(山手通りと神田川の間あたり)、細い路地が無数にある。この日は相生二番坂通り、相生通りを歩いた。
 他にも下本郷通り、本一通りなど、斜めの道がある。暇なときにふらふら歩きたい。

 相生橋から十二社通りを過ぎ、西新宿へ。
 そこから青梅街道に出て、新都心の歩道橋を渡る。夕方四時、新宿西口ハルクからドコモタワーを見る。

 高円寺駅あたりからの歩数は一万歩ちょっと。高円寺〜西新宿は年に何回か歩いている。東高円寺から先は知らない道がけっこうある。

 新宿駅から総武線で高円寺に帰る。今回の散歩は二時間くらい。深夜、飲み屋で本町卓球場の話をしたら、店主もカウンターの常連さんもみんな知っていた。映画のロケに使われたという話も聞いた。映画の名前は忘れた。