2026/01/19

冬の底

 一月十一日、十二日、十三日が今年の「冬の底」かもしれない——と書いたばかりで恐縮だが、十四日(水)と十五日(木)がもっと底。ここ数年で記憶にないくらいの底。
 季節の変わり目というか、たぶん寒暖差に弱いのだろう。

 十六日(金)、夕方四時すぎに起き、夕焼けを見ながら馬橋公園から阿佐ヶ谷神明宮に向かう斜めの道を歩き、そのまま阿佐ケ谷のアーケードの商店街を散策しているうちに、調子の回復を実感した。好きな道を歩くのは精神衛生によい。

 十七日(土)、昼すぎ、西部古書会館。大均一祭(初日一冊二百円、二日目一冊百円)、奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻』(集英社、一九七二年)、『屋根の花 大佛次郎随筆集』(六興出版、一九八〇年)、佐々木節=文、平島格=写真『日本の街道を旅する』(学研、二〇一一年)など。『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻』は、増補版も刊行されているが、どちらも古書価が高い(「日本の古本屋」で五千円くらい)。

 二〇二三年十二月二十二日のブログ(「暮らしの型」)で「奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(集英社、一九七二年)、家にあるはずなのだが、見当たらない」と書いている。

 この日、西部古書会館に行く途中の道でなんとなく『文学における原風景』がありそうな予感がした。会場を一回りして会計をしようと後ろを振り返った棚に『文学における原風景』が見えた。心の中で「よし」と叫ぶ。

 同書の「原っぱ・隅っこ・洞窟の幻想 都市の中の原風景」では、東京山の手に育った著者が「“故郷”とか“ふるさと”とかいう言葉を聞くたびに、奇妙な異和感といらだちをおぼえたものだ」と述べている。

《それはさておき、家のことを別にすれば、幼少年期の思い出として、吸い込まれるようなかなしさ、なつかしさで、ぼくの心を揺するのは“原っぱ”である。“原っぱ”こそ、ぼくの“原風景”であり、ぼくの故郷の断片である》

 わたしの郷里は三重県鈴鹿市の工場の町だったが、幼少年期の一九七〇年代——近所にドカンのある空き地が残っていた。
 ただし、なつかしさをおぼえるのは生まれ育った町より、母方の祖母が暮らしていた浜島(現・志摩市)の海である。近鉄の鵜方駅からバスで二、三十分。子どものころ、英虞湾の矢取島(歩いていける)のあたりで釣りをした。