今日から通常運行。正月中一日だけ横浜に出かけたが、ほとんど高円寺(主に室内)ですごす。外出らしい外出も、外食もせず、元旦に雑煮を作った以外は、うどんを主軸にしたいつもどおりの食生活。
年末に新しいパソコンを買って(前のパソコンはキーボードの「S」が壊れていた。不便だった)、データ移行やら環境設定やらをしているうちに年が明けた。
休み中、勝木光の『ベイビーステップ』(講談社コミックス)を現在刊行中の巻までキンドルで読んだ。優等生の主人公が高校生が、テニスに目覚め、プロテニスプレイヤーを目指すという漫画である。
身体能力その他に突出したものがない人間が、フィジカルエリートにどう立ち向かうかというのは、スポーツ漫画における永遠のテーマといってもいいだろう。
主人公は、目(動体視力)がよく、真面目で几帳面な性格ゆえ反復練習を厭わず、テニスに関するあらゆることをノートに書きこむ「記録魔」という設定だ。
作中、ティモシー・ガルウェイのインナーゲーム理論(インナーテニス)が紹介されていたり、主人公が禅の修業をしたりする場面も描かれる。テニスの戦術やメンタル面などにかなり深く言及している理論派のスポーツ漫画である。
インターバルの多いスポーツは、メンタルの要素が大きく影響する。
スポーツ心理学は、テニスとゴルフが発展させたというのもうなづける話だ。今ではスポーツのみならず、チェスのプロもメンタルトレーナーをつけている。
バリー・グリーン、ティモシー・ガルウェイ著『演奏家のための「こころのレッスン」』(辻秀一監訳、音楽之友社)は、インナーゲーム理論をスポーツ以外の分野に応用した本で、「リラックスした集中」のための技法やもうひとりの「自分の声」が、音楽にも有効だと説いている。
バリー・グリーンはコントラバス奏者でガルウェイの『インナースキー』に感銘し、共著を出すことになった。
グリーンはコントラバスのレッスンを受けていたとき、指をどうしろ、左腕をどうしろ、と先生に注意されてばかりいた。あなたはまちがっているといわれても、その理由がわからない。
練習してもなかなか上達しなかった。
ところが、あるとき演奏会で名コントラバス奏者のゲリー・カー(ゲーリー・カー)の演奏を聴いた。
《私がそこで学んだことは、10年分のレッスンに匹敵するものでした。私はゲリー・カーがどんなに易々と弾いているかを見たのです。音楽の意味と力を感じ、その音は私の心と魂に届きました。コントラバス奏者の身体が楽器と「融合する」と、きっとこんな感じなのだろうということが、おぼろげながら初めてわかったのです》(第10章 理想の指導と学習)
その演奏会以来、バリー・グリーンは「カーならどう弾くだろう」と想像しながら、レッスンに取り組んだ。
カーの演奏を自分の演奏に「翻訳」できることに気づいたことが、自分の転機だったという。
言葉でいくら説明されてもわからないことが、たった一度の演奏を聴いただけでわかる。
スポーツにも音楽にもそういう面がある。
2014/01/05
自分の声 その五
三十代の試行錯誤をふりかえるつもりが、書いているうちに忘れていたことをおもいだしたり、考えが変わったりする。
マイク・ルピカのスポーツコラムをはじめて読んだとき、その文章の何がどう「自分の声」なのかわからなかった。
ルピカは野球、テニス、バスケットボール、陸上、ボクシンングなど、あらゆるジャンルのスポーツを書いている。おそらくひとつひとつのスポーツのジャンルの知識はその種目の「専門家」には太刀打ちできないはずだ。だとすれば、ルピカは何で「専門家」に対抗しているのか。
ルピカは、ある試合、ある選手の記憶を書き留める。敗者に寄り添ったコラムを書く。しかも「一時間に千語」というスピードで。
三十代のわたしが『スタジアムは君を忘れない』に感激したのは、スポーツという枠はあるにせよ、それ以外はかなり自由に書いているとおもえたからだ。
《ロイ・キャンパネラは口癖のように言ったものだ。野球をやるなら心にたっぷり少年の部分を持っていなければならない、と。スポーツライティングもまったく同じ。いま目にしているものを好きになること。もし好きになれなかったら、どこにでもいるタイムカードを押すだけのクズと変わらない》(『スタジアムは君を忘れない』まえがき)
好きになること――ルピカのライティングの根底にはそういう気持がある。それがそのまま彼の「声」になっている。
好きなことをする。当然、そのために何かを捨てたり、我慢したりすることもある。好きだからといって何もかもできるわけではない。
いつの間にか、好きなことにブレーキがかかるようになっていた。せっかく好奇心が芽生えても、今やっている仕事にすぐ結びつかないようなことは後まわしにする。
しめきりという制約の中、自分のできること、やりやすいことしかしなくなる。
少年時代の自分はどうだったか。興味をもったことにすぐ飛びつき、できるかどうかわからなくても、やってみようとする。失敗をおそれず、簡単にあきらめない。
いつから自分はそういうことができなくなったのか。
(……まだ続く)
マイク・ルピカのスポーツコラムをはじめて読んだとき、その文章の何がどう「自分の声」なのかわからなかった。
ルピカは野球、テニス、バスケットボール、陸上、ボクシンングなど、あらゆるジャンルのスポーツを書いている。おそらくひとつひとつのスポーツのジャンルの知識はその種目の「専門家」には太刀打ちできないはずだ。だとすれば、ルピカは何で「専門家」に対抗しているのか。
ルピカは、ある試合、ある選手の記憶を書き留める。敗者に寄り添ったコラムを書く。しかも「一時間に千語」というスピードで。
三十代のわたしが『スタジアムは君を忘れない』に感激したのは、スポーツという枠はあるにせよ、それ以外はかなり自由に書いているとおもえたからだ。
《ロイ・キャンパネラは口癖のように言ったものだ。野球をやるなら心にたっぷり少年の部分を持っていなければならない、と。スポーツライティングもまったく同じ。いま目にしているものを好きになること。もし好きになれなかったら、どこにでもいるタイムカードを押すだけのクズと変わらない》(『スタジアムは君を忘れない』まえがき)
好きになること――ルピカのライティングの根底にはそういう気持がある。それがそのまま彼の「声」になっている。
好きなことをする。当然、そのために何かを捨てたり、我慢したりすることもある。好きだからといって何もかもできるわけではない。
いつの間にか、好きなことにブレーキがかかるようになっていた。せっかく好奇心が芽生えても、今やっている仕事にすぐ結びつかないようなことは後まわしにする。
しめきりという制約の中、自分のできること、やりやすいことしかしなくなる。
少年時代の自分はどうだったか。興味をもったことにすぐ飛びつき、できるかどうかわからなくても、やってみようとする。失敗をおそれず、簡単にあきらめない。
いつから自分はそういうことができなくなったのか。
(……まだ続く)
2014/01/04
才能とは?
今年初の西部古書会館。本が安くなった。昔、二千円くらいで自分が買った本が百円、二百円。それでも売れ残っている。ちょっと悲しい気分だ。
年明けから、テレビを見て、漫画を読んで、ぐだぐだすごしている。サッポロビールのCMがよく流れる。妻夫木聡の「大人のエレベーター」シリ−ズの総集編——。
その中に北野武に「才能とは?」とたずねる回がある。
北野武は「どの仕事を選べばいいのかわかる人は才能がある(とおもう)」と答える。
自分に合った仕事を選ぶ。それが何かはむずかしい。
単に好きなことをすればいいというものではない。好きなものにも適性がある。どんなに好きでも、競争がものすごく激しく、限られた人しかその席に座れない仕事もある。
適切な仕事の選択をして、一生にわたって創意工夫を続ける覚悟を持てるかどうか。他人から否定されても「自分は才能がある」とおもい続けることができるか。
自分に足りないものをどう補えばいいのか。
北野武というか、ビートたけし自身が本で語っていたことだけど、才能は「時代」にも左右される。
ツービートが活躍していた時代と今とでは漫才やお笑いの裾野の広さがちがう。だから、今はかなりの技術があっても、突出するのはむずかしい。
そういうことは他のジャンルにもいえるだろう。
漫画家もそうだ。トキワ荘の時代なら高校を卒業して(もしくは在学中から)、プロになることは珍しくなかった。今でも不可能ではないが、現在の日本の漫画の平均水準を考えると、極めて困難だ。
プロとアマの話をいえば、プロの場合、その職業に求められる平均水準の能力だけではなく、「+α」が問われる。逆に突出した「+α」があれば、平均水準の能力は「最低限」でもどうにかなる。
「+α」は、一言で説明するのはむずかしいのだけど、「独自性」や「希少性」に基づいた能力と考えてもいいかもしれない。
色川武大はフリーランスとして生きていくには「極め技」がないと厳しいという(「極め技」があったとしても「運」に左右されるというのが色川・阿佐田哲学なのだが……)。
しかし今の世の中は「最低限」の水準が上がり、「極め技」が通用する期間が短くなっている。
新年早々、そんなことを考えていた。
あいかわらず睡眠時間がズレまくる。正月ボケも治らん。
年明けから、テレビを見て、漫画を読んで、ぐだぐだすごしている。サッポロビールのCMがよく流れる。妻夫木聡の「大人のエレベーター」シリ−ズの総集編——。
その中に北野武に「才能とは?」とたずねる回がある。
北野武は「どの仕事を選べばいいのかわかる人は才能がある(とおもう)」と答える。
自分に合った仕事を選ぶ。それが何かはむずかしい。
単に好きなことをすればいいというものではない。好きなものにも適性がある。どんなに好きでも、競争がものすごく激しく、限られた人しかその席に座れない仕事もある。
適切な仕事の選択をして、一生にわたって創意工夫を続ける覚悟を持てるかどうか。他人から否定されても「自分は才能がある」とおもい続けることができるか。
自分に足りないものをどう補えばいいのか。
北野武というか、ビートたけし自身が本で語っていたことだけど、才能は「時代」にも左右される。
ツービートが活躍していた時代と今とでは漫才やお笑いの裾野の広さがちがう。だから、今はかなりの技術があっても、突出するのはむずかしい。
そういうことは他のジャンルにもいえるだろう。
漫画家もそうだ。トキワ荘の時代なら高校を卒業して(もしくは在学中から)、プロになることは珍しくなかった。今でも不可能ではないが、現在の日本の漫画の平均水準を考えると、極めて困難だ。
プロとアマの話をいえば、プロの場合、その職業に求められる平均水準の能力だけではなく、「+α」が問われる。逆に突出した「+α」があれば、平均水準の能力は「最低限」でもどうにかなる。
「+α」は、一言で説明するのはむずかしいのだけど、「独自性」や「希少性」に基づいた能力と考えてもいいかもしれない。
色川武大はフリーランスとして生きていくには「極め技」がないと厳しいという(「極め技」があったとしても「運」に左右されるというのが色川・阿佐田哲学なのだが……)。
しかし今の世の中は「最低限」の水準が上がり、「極め技」が通用する期間が短くなっている。
新年早々、そんなことを考えていた。
あいかわらず睡眠時間がズレまくる。正月ボケも治らん。
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