2006/12/16

エンドレスブックストリート

 太田克彦の『エンドレスブックストリート』(総林社)という本を読んだ。そんなに分厚い本ではないけど、読むのに三日もかかった。かんがえることがいっぱいあって、途中で読みおわるのがもったいなくなったのだ。
 現実が停滞すると、読書も停滞する。ただ現実の停滞を読書によってすこしだけ動かすこともできる。
 そういう本が読みたい。そうおもっていたときに太田克彦の一連の作品に出くわしたのである。

《本にたいする価値観が、どこにあるのか自分でもよくわからない。たいていのものは値段が高いか安いか判断できるのだが、本に関してはどうもぼくだけの基準で考えているようだ。たった一行のために高い金を出すことも珍しくない》(“読者”といっても二つのタイプがある)

 行きづまった考えを、すこし先に進ませてくれるような、こんがらがった考えをほどいてくれるような、あるいは別の方向性に気づかせてくれるような一行を求めて、わたしも本を読むことがある。
 この本もそういう本だった。

 さらにこんなことも書かれていた。

《そのくせぼくは本が好きなのかと考えると、そうでもない。むしろ本なんて一冊もない生活だったら、サッパリするだろうと思っている。(中略)いまある本をすべて処分したら気分がいいだろうと思ういっぽう、周りに本がギッシリあるからなんとなく落ち着けるという実感とのあいだで、いつも心は揺れ動いている。事実、これまでに何度か手持ちの本を思いきって処分しているのだが、ものの一か月もたたないうちに後悔してしまう》

 まったく面識はないが、おもわず「先輩」と呼びたくなる。

 太田克彦は、読者の二つのタイプとして、ふだん本屋に立ち寄らない人と本屋にはいったらなかなか出てこない人にわかれ、「ベストセラーは日ごろ本を読まない層に支えられることが多い」という。だからマスコミの世界で働く本が好きな人は、作品を売るために「自分では身銭を切って買うことのないであろう」企画を立てることがよくある。

《どうも読者、読者と、幻の読者を気にしているのではないだろうか。いまの読者の傾向は、などと考える前に、自分の興味がこの時代の中でどこにあるかということを考えたほうが有効性を持つと思うのだ。自分の興味が発見できないと、たいてい幻の読者にすがろうとする。なんといっても説得すべき最大の読者は自分なのだ》

 自分の興味をひたすら追いかけて、追いかけているうちに迷いがしょうじる。これでいいのかとおもう。自己満足ではないのか。プロなら自分ではなく読者をよろこばせるようなものを書くべきではないのか。
 自分がおもしろいとおもうものは、自分以外にもおもしろいとおもう人がいる。

 この時代、一年、あるいは数ヶ月、いや、数日で情報は古くなる。そのテンポはますます早くなっている。この時代の中で古くならないものを見つけたい。わたしの古本屋、中古レコードへの興味のひとつはそこにある。
 文学についてもそうおもう。今の小説にしても、数年後、数十年後にちゃんと古書価のつくものはどのくらいあるのか。古書価はともかく、十年後、読者はいるのか。わたしはそういう目で新刊書を見てしまうことがある。

 一九八四年刊の『エンドレスブックストリート』は、一九七七年以降七年にわたる「時代」の本がたくさん紹介されている。
 浅田彰『構造の力』、中沢新一『チベットのモーツアルト』、『メイド・イン・USAカタログ』、ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』、『ワッサーマンのアメリカ史』、落合信彦『アメリカが日本を捨てる日』、宮内勝典『グリニッジの光を離れて』、ライアル・ワトスン『生命潮流』、沢渡朔『少女アリス』、篠山紀信『カメラ小僧の世界旅行』、荒木経惟『男と女の間には写真機がある』、藤原新也『東京漂流』……。
 そんな「当時」の本のあいだに、野尻抱影、稲垣足穂、小山内龍、山川惣治といった名前も出てくる。

《(小山内龍の)『昆虫放談』は、昭和十六年に発行されて以来、これまで単行本として三回上梓されている。それにしても四〇年もたったいまでも、みずみずしい感触がある本なんてそうザラにはない。驚きだ。バイクも釣りもそうだが、あらゆるブームはマニアがつくる。学者が書いた本ではなく、ひとつの世界にのめりこんだマニアが著した本には、やはり普遍性があるものだなと思っている》(できればゴリラになってしまいたい)

 新刊本の紹介の部分は多少古くなっている。またわたしの不勉強のせいもあって、ヴィジュアル関係の話にはほとんどついていけない。しかし本を読んだとき、写真集を見たときの太田克彦の心のうごきはまったく色あせていない。

《本についてぼくはいろいろ書いてきた。しかしその日の気分で、ピックアップする本も書き方もちがう。何の脈略も系統もない。けれどもとりあげる本は、その日に出会った風景の一部なのだ。ぼくにとって本とは、知性の道具ではなくて、感性の刺激剤だ》(いままでほんとうの“知”がブームになったことなど一度もない)

 選んだ本は「単に締切近くなって偶然出会い、心の琴線に触れた本ばかり」だという。
 新しいものを追いかけながら、古くならないものを書く。
 それはほんとうにむずかしいことだ。
 この新しい、古いの感覚も、個人の感受性に左右されるところもある。
 古いものの中に新しさを発見する感覚、そして心の琴線を麻痺させないためにはどうすればいいのか。

 そんなことも考えさせられてしまった。