《立居振舞において、「紳士」という言葉が私の脳裏に浮ぶことはないが、その替りに浮かぶものがある。それは、「人間」とか「男子」とかいう言葉である。つまり、「こういうことをしては、人間として面目ない」とか、「男子として面目ない」とかいう発想である。
そして、この「面目ない」ことを犯した場合は、長くそのことが傷となって私の心に残る。長い時日が経って、全く心の表面から消えうせたようになっていても、なにかのキッカケでなまなましく記憶がよみがえり、傷が痛むことがしばしば起る。そんなときには、
「あ、あああ」
と、私の咽の奥でわれ知らず、声に似た音が鳴るのである》(紳士はロクロ首たるべし/吉行淳之介著『不作法紳士』集英社文庫)
ときどき「文学とはなにか?」と自問する。偏っているかもしれないが、わたしは「あ、あああ」というものが、文学なのではないかとおもっている。
(……以下、『古本暮らし』晶文社所収)