2006/12/22

体力

 長年、体力は気力でおぎなえるのではないかとおもっていた。
 わたしは体力に自信がない。子どものころから年百日くらい風邪気味だった。そんなからだで生きてきたのだ。そのかわり気力は人並かそれ以上あると自負していた。気力にしても体力にしても回復させる方法は休むしかない。
 だから休んでばかりいる。休めば元にもどる。そうおもっていたのだが、このごろなかなか気力も体力も回復しないのである。
 昨日は充分休んだ。今日はやるぞとおもう。ところが、あんまりやる気がでない。最近そういうことが多い。

 なまけてばかりいるから、確実に体力が落ちている。あきらかに全身の筋力も衰えている。
 そのことは疑いようがない。
 体力が落ちるにともなって、気力も落ちるのかもしれない。気力でおぎなっているつもりだったのは、まだ若くて、体力があったから、そんな気になっていたにすぎない。そうにちがいない。

 話はかわるが、質と量の関係も似ているかもしれない。
 質より量、量より質。どちらがいいのかわからない。ただ量は質に転化することはあるが、質は量に転化しない。
 体力がないと、量を生みだせない。わたしの生活がなかなか向上しない理由はそこにある。仕事量が足りない分、質で勝負しようという気持はないでもないが、そう簡単に質は上がらない。あるていど量をこなさないと、質も上がらないのではないか。やっぱり場数がものをいうのではないか。

 体力あっての気力という発想に変えたほうがいいのかもしれない。といっても、体力は人並以下である。だからこれまではあんまり体力のことを考えないようにしてきたのである。でも体力がおとろえると、気力もおとろえることを痛感してしまった以上、なにか手を打たないとまずい。

 体力とはなにか。筋力と内蔵の丈夫さだとおもっている。
 わたしはあんまり食欲がない。ほぼ毎日、酒、タバコ、コーヒー漬けである。今のところその生活はあらためる気はない。不摂生をしながら、体力よりも気力で勝負というのは、虫のいい話である。
 すこしはからだを鍛えよう。食生活を見直そう。
 これからいろいろなことを改善していくつもりである。
            *
 先月、神保町の古書会館で「古本・夜の学校」というイベント(書肆アクセスの畠中さんと石田千さんとわたしのトークショー)があって、その中で今年の三冊を発表した。

 わたしはアンディ・ルーニーの『自己改善週間』(北澤和彦訳、晶文社)を三冊のうちの一冊にあげた。もちろん新刊ではない。
 この十年くらい、日本の私小説や身辺雑記をこよなく愛してきたのだが、せまいジャンルをひたすら読みつづけていると、行きづまってくる。
 なかなか尾崎一雄や古山高麗雄みたいに全作品を読みたくなるような作家もあらわれない。

 ところが、アメリカにも「人生派コラムニスト」と呼ばれる人たちがいて、その代表ともいえるマイク・ロイコとアンディ・ルーニーを読んだら、予想以上に好みの作品だった。

 とくにアンディ・ルーニーはわたしの理想のコラムニストだ。
 ちましましていて、ちょっとだめなかんじがほんとうに素晴らしい。アメリカは、大雑把で大味な国という印象だったが、考えをあらためなければいけないとおもった。

『自己改善週間』には「またやってしまった——何もせず」というコラムがある。

《いまだに学習していないのはわかっている。というのも、今年もまたやってしまったのだ。休暇先に山のような書類仕事を持っていったのはいいが、ひとつも片づかなかった。去年も一昨年もおなじことをしたし、思い出すかぎり何年も繰り返している。返事を出す手紙、未払いの請求書、書きたいことに関するメモを持っていった。何もせず。(中略)
 何かをしないというのはよくわかる。しかし、絶対にやれるはずがないと経験でわかっているのに、どうしていつも何かをやろうと甘い考えを抱くのか。わたしはそのあたりがわかっていない》

 こういう文章、わたしはほんとうに好きだ。

 タイトルにもなっている「自己改善週間」というコラムでは、こう高らかに宣言する。

《ジョギングをし、グレープフルーツを食べ、運動をし、歯をみがき、新聞を読み、ズボンにアイロンをかけ、爪を切ったら、二、三分間力を抜いて黙想し、一日の計画を立てる。どこかで読んだが、みんな、朝まえもって一日の計画を立てるべきで、行き当たりばったりに始めてはいけないそうだ。わたしはそうする》

 体力は大切だ。体力はけっして気力ではおぎなえない。
 これまでの考えはまちがっていた。心をいれかえたい。
 いや、からだを変えたい。