特別区民税・都民税の督促状の払込み期限がすぎてしまったので、杉並区役所に行く。ついでに阿佐ケ谷の文房具屋でパラフィン紙を三十枚買う。そのあと区役所に行ったら、払込用紙を忘れてきたことに気づく。面倒くさいので、そのまま荻窪のささま書店まで歩く。そのあとCO-OPのインスタントラーメンを買う。CO-OPは高円寺にないので、いつもささま書店に行ったついでに寄る。
たぶん、そのときだろう。パラフィン紙を置き忘れたのは。ああ、四百五十円が。うう。
荻窪から丸ノ内線で新高円寺駅に行って、「七つ森」で休憩しているときに気づいた。戻る気力なし。
中村光夫のことばかり考えているせいかもしれない。
以下は、年末進行の最中、しめきりのあいまに書いた原稿を公開です。
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中村光夫の『今はむかし ある文学的回想』(中公文庫)に、中原中也という、人としてはかなり厄介だけど、とんでもない詩の才能をもった人間のことを回想するくだりがある。
中原中也は、昭和を代表する評論家である中村光夫ですら、自分を凡人だとおもわせてしまうような存在だった。しかし中原中也は凡人たちに嫉妬した。詩をつくる以外、生活能力とよべるものが何もなかったからだ。
かつて、中原中也は「俺の詩はみんな筋金がはいっているからな。ぶったって、たたいたって、四十年や五十年は」というようなことを中村光夫にいったそうだ。
《実際、おれの作品にはおれの命が注ぎこんである。だからそれは生きるに違いないという自負だけが、不幸と孤独のなかで氏を支えていたようでした。
この自負は正しかったのですが、氏の心を安らかにするほど、確固としたものではなかったようです》
そのせいかどうか、中原中也は同時代の作家の悪口ばかりいっていた。中村光夫もそのとばっちりをくらったひとりだ。ビール瓶で頭を殴られたり……。
その後、中村光夫は鎌倉から東京に引っ越し、中原中也と疎遠になった。
中原中也の「生きていること自体が苦痛であるような」挙止は、その美しい詩句とつながるのか、そうではないのか。詩人の人生は、通常人とはちがうものなのか。
中村光夫はそんなことを考えていた。
世の中とうまく折り合いがつかないから、表現や趣味の世界にのめりこんでしまうということはある。そういう世界にのめりこみすぎてしまって、生きがたい人になってしまうということもある。
中原中也ほどの才能があるかどうかは別にして、わたしのまわりにも、しょっちゅう不用意としかおもえない衝突や摩擦をひきおこしてしまうことによって、せっかくの能力をうまく活かせていないとおもう人間が何人かいる。
もったいないとおもうが、ちょっとうらやましい気がすることもある。
友人のひとりは、とにかく楽に生きている連中が許せない。自分はこれほどまでに生活やらなんやらを犠牲にして、ものを作っているのに、相手はただの仕事としか考えていなかったりする。
そうすると、「どうしてもっと苦しんで、もっとおもしろいものを作ろうとしないんだ」と不満におもうわけだ。
世の中と折り合えないから、文学やら音楽やらの世界に来たつもりなのに、そこもまたつまらないルールが支配しているのか、要領のよさがものをいうのか。そういいながら憤ったり、嘆いたり、やる気をなくしたりする。
『今はむかし』を読みすすめていると、こんな文章に出くわした。
《むろんこれは詩人だけの問題ではなく、小説家でも批評家でも、同じことなのですが、ふつうの文学者には遊び、あるいは余裕があります。この常識人という反面で、彼は人生に触れ、そこから養分を吸収するのですが、ときにこれがすぎて、彼のなかの芸術家まで人生と溶け合ってしまうことがあります。しかし、その人自身はそれで幸福であるわけです。
ところが中原氏の場合は、そういう余裕や遊びはまったくないので、氏と人生、社会との間にはただ断然があるだけです。こういう言い方は誇張と聞こえるかも知れませんが、若かった氏がそう生き、また若かった僕らの目に氏がそう見えたはたしかです》
遊びと余裕。人生、社会との断絶。
わたしは遊びと余裕を必要とする。ただ、余裕がありすぎると、切実に本が読めなくなり、文章も書けなくなる。
あるていど、与えられた条件で自分のできる仕事をこなすという技術がないと暮らしは安定しない。
その安定とひきかえに失ってしまうものもある。なにもかも、というわけにはいかないのは、世の常だ。
中村光夫にしても、若いころは、論争相手の大家にむかって「齢はとりたくないものです」といい、物議をかもしたことがあった。
でもいずれは自分も齢をとる。
四十代、五十代になったとき、自分はどうなっているのか。そんなことを今から考えていても、たぶん、そのときにならないとわからないんだろうなあ。