中村光夫は明治四十四年、西暦でいうと一九一一年生まれ。
日米開戦のとき、三十歳だった。
河上徹太郎に「政治に絶望」しているといわれた中村光夫は、文芸誌に「日本の戦争とは無関係」の評論を書き続けていた。当時をふりかえり、次のような感想をのべている。
《芸術の仕事は、何かの意味で、いい気にならなければ、出来ないものかも知れません。
現代で芸術をつくる難しさの、過半はそこから来ているのでしょうが、この困難はふたつに大別できそうです。
ひとつは、芸術家の外部からくるもので、権力の圧迫、商業主義の支配などが、その典型です。
いまひとつは、時代の教養がいろいろな形ではりめぐらす意識の網の目で、これが芸術家の内部に巣食う敵であるのは言うまでもありません》(「文学界」と「批評」/『憂しと見し世』)
前者はわかるが、後者の「時代の教養がいろいろな形ではりめぐらす意識の網の目」とはどういう意味なのか。
ちなみに、このとき「いい気」になってやっていた仕事は「二葉亭四迷論」と「戦争まで」というフランス留学記だった。戦時中、「日本の戦争とは無関係」な評論を書いていた中村光夫だが、戦後は「日本の近代」との戦いがはじまる。
《明治以来、われわれの思想や感受性の動きは、表面めまぐるしい変化の連続のようですが、ちょうど同じコップにさまざまな飲物をかわるがわる注がれたように、外国思想の影響をうけてきたあとは、見方をかえれば、変ったのは、コップに注がれた内容だけで、コップの形はむかしから少しも変わらなかったと言えます。そして僕らが観念的にでなく、実際持ち得た「近代」とは、このコップであり、これだけが、あわただしい変転のなかで、かわることのない僕らの精神の実態と言えますが、この無意識の環から抜けださない以上、僕らに自分の本当の姿を見ることは不可能であり、どのような善意も人々を幸福にもしないし、自分を救うこともできないと思われます》(「第二の開国」/『日本の近代』文藝春秋)
わかるようなわからないような言い方だけど、「無意識の環」あるいは「時代の教養がいろいろな形ではりめぐらす意識の網の目」から逃れたいというおもいが、中村光夫にはあった。
明治大正は「西洋かぶれの時代」だったと中村光夫は考えていた。
最近、中村光夫の『近代への疑惑』(穂高書房、一九四七年刊)という本を入手した。その中に「影響論」という評論がある。
一九三八年三月、中村光夫が二十七歳のときに書いたものだ。「今日世界を蔽う電信とラジオの網」は、世界をどれほど変えたのかと問い、そのことによって、「地球を小さな塊」に変え、われわれの精神を徒らに忙しくしたのではないかという。
かれこれひと月、わたしは二十代のころのような読書に没入する感覚をとりもどしたいとおもいながら、中村光夫を読んでいた。そして「影響論」の中に、その答えを見つけることになった。
《書物を通じてその奥に生きる人間に觸れ、彼に同感し、または反撥すること、こゝに僕らの書物に對する興味を常に新鮮に保ち、またこれを僕等の血肉に消化する誤たぬ方法があるのだと僕は信じてゐる。そしてこれは何も僕一個の獨斷ではない。サント・ブーヴも正宗白鳥氏にしろ、古今の讀書の名人は、すべて實際かうした態度で書物に接してゐる。云ひかへれば彼等の想像力は、常にその日常接する人間に對すると同じ自然さで書物の上に働いてゐる。そして彼等が一つの書物を判斷する最後の言葉は、次のやうなものである。「一體この本のどこに、どういふ風に己は身につまされたか」と。おそらく、彼等の手にする書物は、すべてこの問ひに答へることによつて彼等の身になるのである。そして彼等の批評に絶えず或る新しさを與へる素朴な健康性も、またこゝから生れると僕には思はれる》
年々、活字を血肉にしたり、身につまされたりする読書から遠ざかっている。手っ取り早く、知識を得ようとすれば、書物の奥にいる人間に届かない。そんな当たり前のことを忘れていた。「影響論」はおよそ七十年前に書かれた評論だが、中村光夫は「現代における印刷物の氾濫は、僕等からめいめい自分でものを考へる力も殆ど奪ひ去ってしまつてゐる」という一文もあった。
《したがつて、僕等の精神は、絶えず消化の出來ぬ言葉を一杯に詰めこまれる状態に生きるほかはない。そしてこれらの言葉は僕等の頭のなかで不消化のまゝ、次々に新しいものに代つて行く》
《知識の普及の異常な容易化が、人間精神の本來の機能の異様な衰耗と相通ずる點に、現代文化の最大の病弊が横たはるのではなからうか。(中略)言葉が僕等の精神に與へられた唯一の思考の要具である以上、言葉を粗略に扱ふ人間はかならずその言葉に復讐を受けずにはゐない。言葉を粗略に扱ふとは、粗略に物を考へることだ》
くりかえすが、これは一九三八年に書かれた文章なのである。それから七十年、印刷物の氾濫は当時の比ではないし、テレビ、インターネットも登場した。ますますわたしたちは、消化しきれないほどの言葉に精神がさらされている。
不消化の言葉が蓄積するにつれ、「精神の生きた機能」や「自分でものを考へる力」が麻痺していくと中村光夫はいう。
また中村光夫は「見ぬ世の人を友とする」ことこそ、読書の歓びであるという。この「見ぬ世の人……」云々というのは、吉田兼好の「徒然草」にある言葉だ。
わたしは中村光夫が生涯に書き残した文章の、まだほんの一部しか読んでいない。でも何かあるとかんじたのは、期せずして「書物の奥の人間」に触れてしまったからなのだろう。いい読書をすると、「書物の奥に人間」が自分の中に住みはじめる。
中村光夫、友だちになれるだろうか。