年末進行、忘年会、いろいろあって、更新停滞。
寝ちがえて、からだが動かすのもしんどい状態になる。こんなにひどい寝ちがえは久しぶりだ。首がまわらない。
中村光夫の『文学回想 憂しと見し世』(中公文庫)を読んでいて、ようやく戦前から戦中の文学の世界になじんできたところで、中断してしまった。一人の作家の本をずっと読み続ける集中力がなくなってきている。その時間を捻出するのもむずかしい。
二十代のころは読書に没頭することなんてわけなかった。逆にのめりこみすぎないようにブレーキをかけないと仕事に支障をきたすのが悩みの種だった。今は読書に没頭する感覚をとりもどすために、あがいているかんじだ。
戦前戦中の言論弾圧の激しかったころの「時代の空気」が、わかるようでわからない。
反体制でなくても、ちょっとした発言でも取締りの対象になるという状況下で、文章を書いたり、本を出版したりする仕事を続けるのは、たいへんなことだった。軍の批判なんか、まったくできない。ちょっとしたことで警察につかまってしまう。文学者の集まりなんかにもスパイがまざっていたという。
弾圧の対象は、マルクス主義から自由主義にまで拡大されていった。
《自由主義は、マルクス主義と違って、本来あいまいにしか定義できないものです。したがって、そのレッテルは誰にも簡単に貼れるので、それが罪悪とされるようになったのは、一部の御用思想家以外は誰でも、当局の意のままに犯罪者として拘引できるということです》
今の世の中なら、かつての戦争、軍国主義を批判することはいくらでもできる。しかし、当時その流れを食い止める方法はあったのかどうか。
《当時の軍人たちのやりかたは、戦争をまず勝手に起しておいて、これを口実にして政権を壟断し、国内を統制し、支配しようとするので、そのために平和の到来を何よりも恐れて、戦争を神聖化し、永久化しようとする傾きさえそこから生まれました》
中村光夫は、日本の軍国主義に疑問をもっていたが、河上徹太郎に「君は政治に絶望しているから駄目だ」といわれた。しかし時勢に協力したり、抵抗したりする河上徹太郎のような人がいたおかげで、「僕はいい気になってやりたいをやっていられた」と中村光夫はふりかえっている。
ほかにも当時の日本のあり方はおかしいとおもっていた人はいた。しかしそれを口に出していえば、政治家は除名され、文学者は表現の場所を失う。批判すればするほど、取締りが強化される。
そんな状況になったら、どうすればいいのか。
かつてのような軍国主義の復活を危惧しているわけではない。
でも『文学回想 憂しと見し世』を読んでいると、とにかく身につまされるのだ。
昭和十八年、日本の敗色が見えはじめると、だんだん日常生活が、乏しく、不潔で、不便になった。
《いまから考えると、よくあんな生活に堪えられたものですが、その当時はだんだん馴らされたせいか、むしろそれが当たり前のように思っていました。(中略)そのくせ一杯の酒、一椀の飯にもがつがつし、身体から脂気や力がぬけて、芯から働く力がなくなり、なるべく怠ける算段をするという風に、国全体が囚人の集団に似てきました》
馴れるということに、常に警戒心を持っていないとまずい。貧乏だけでなく、浪費だってそうだ。馴れてしまって、破滅をむかえる。いざ経済危機や食料難に陥ってしまえば、個人としては、ほとんどなす術がない。
《昭和十九年になると、敗戦の徴候はますますはっきりして来ました。と言うより、もう勝てるとは誰にも思えなくなったが、負けたら一体どうなるのか、どうすればよいのか、見当がつかない状態といった方が当っているかも知れません》
見当がつかなくて、手をこまねいているうちに、被害はどんどん拡大する。
無為無策、打つ手なし。
これは戦時中にかぎった話ではない。