どうもやる気がでないので、自転車で阿佐ケ谷に行く。早稲田通りから北口の「ゆたか。書房」「銀星舎」「ネオ書房」「今井書店」「千章堂書店」の順に古本屋めぐり。
そのあと高円寺にもどって、名曲喫茶ネルケンでコーヒーを飲んで、北口のアンデスで豚肉を買って帰宅する。なんか調子がわるいなあとおもっていたら、雷雨。
仕事しないとなあとおもいつつ、現実逃避ばかりしている。
ソフトボールの決勝戦と女子サッカーの三位決定戦を交互に見て、そのあと古本のパラフィンがけと値段付をする。好不調と関係なくできるちょこまかした作業はけっこう好きだ。
阿佐ケ谷の古本屋で買ったみうらじゅんの『ボク宝』(光文社文庫、一九九九年刊)を読んだ。
《物集め、収集、コレクション、意味合いはどれも同じだが、この世界もどこかの誰かさんがいつの間にか介入してきて「どれだけ持ってるの?」「価値は上がってんの?」「売ったらいくらになるの?」と、ややこしいことになってきた。
かく言うボクも、バリバリその世界で戦い、出費に苦しみ、“こんなものまで押さえなきゃなんないわけ”と悩んだりもした。それは全て、どこかの誰かさんが作ったルールの下、いつかくる(はずの)他人に向けての自慢を、期待しての戦いであったわけだ》(「ボク宝に指定します!」)
それで四十歳を前にしてこれまでコレクションをふりかえり「どれがぼくにとってのボク宝なのか?」を検討する。
結局、自分にとって何が必要なのか。わたしも「どこかの誰かさんが作ったルール」にしばられながら、古本を売ったり買ったりしている。それではいかんとおもうのだが、なかなかそこから逸脱できない。
仙台への旅行中に『積んでは崩し 南陀楼綾繁のブックレビュー&コラム』(けものみち文庫1)が届いていた。逸脱している。道なき道を邁進しているかんじだ。まさに、けもの道だ。そのけもの道は、すでに南陀楼さんのルールや方法論が確立されている(とおもう)。
とはいえ、本を紹介するだけでなく、書店に仕入れさせて、売れ残ったら自ら買い取るというルールには唖然……。
南陀楼さんより若い世代からすると、またそこからの逸脱を考えなくてはいけない。けもの道はけわしい。