2009/05/21

大人の知恵

 一年二年と月日が流れるうちに、自分の書いた文章や思考の欠陥が、大きく浮び上がってくる。書かなければ、そのことに気づかない。そのときそのときはわかった気になっていたことも、時間とともにどんどん更新されてゆき、何年か経つとすっかりちがう考えになっていることがある。

 たとえば、二十代のわたしは、旅行のさい、お金をかけずに時間をかけたほうがいいとおもっていた。目的地に普通列車で行けば、途中の景色も楽しめるし、その間、本も読める。ただし、移動による疲れで、目的地に着いてから、十分に活動できないこともよくあった。新幹線で行けば、お金はかかるし、旅情のようなものは味わえないが、体力が温存できるし、目的地に着いてからの時間も長くとることができる。

 お金と時間と体力その他を計算して、よりよい手段はなにかと考え、そのときどきの最善を選んだほうがいい。そんな当たり前のことを今さらとおもう人もいるかもしれないが、四十歳を前にわたしはようやくそのことに気づいたのだ。何年かしたら、また考えが変わるかもしれない。

 住まいについても、いろいろ優先事項が変わってきた。二十代のころはどうせ仕事場に泊って家に帰らないのだから、なるべく安い部屋がいいと考えていた。風呂なしでもいいから、本をたくさん置ける広い部屋がいいと考えていた時期もある。しかし今は自分の希望と同居人の希望の折り合いをつける必要がある。そうしなければ、生活が成り立たない。

 そのうちまず折り合いのつくような条件を考えるようになった。だんだん、その条件に合わせて、自分の考えや行動を変えることに慣れた。むしろそのほうが楽かもしれないとさえおもえるようになった。

 結論を保留することはあっても思考を停止させない。常に変化を前提にして考える。

 入念に計画して準備が整うまで動かない、行き当たりばったりでもいいから動く、どちらがいいのかという問題がある。

 わたしは慎重かつ小心ゆえ、行き当たりばったりで行動することが得意ではない。何も考えずに行動しているようにおもえる友人を見ていると、いつもハラハラする。しかし、これも長い目でみると、計画派と行動派、あるいはそのバランスをとる派のどれがいいのか、その人の向き不向きもあるし、ケースバイケースだ。

 苦手なことは人にまかせたり、逆に相手の苦手なことを引き受けたり、何でもかんでも自分でやろうとしないことが、大人の知恵だろう。ただ、一度、いや、二度か三度か、何でもかんでも自分でやってみるという経験なしには、なかなか大人の知恵は身につかない。はじめから分業に徹すると、自分の中に眠る可能性、ほんとうの得手不得手に気づかずに一生終えてしまうこともある。もちろん幸せならそれでいい。

 だからこれから何かしたいと考えている若い人には「とりあえず、やってみれば?」ということにしている。失敗は失敗で次の糧にすればいい。自分のことになると二の足を踏むことが多いが、そうおもう。