2010/11/15

まだ脱線

《この話は個別の案件であって、有無をいわせないような才能があったり、周囲との衝突や摩擦を苦にしない人には関係ないといってもいい》

 食うに困らない身の上であれば、この個別の案件における問題の九割くらいは解決してしまうかもしれない。
 長年、やる気のなさや社交性のなさを自覚しつつ、ごまかしごまかしやりくりし、それなりに生きるための工夫はしてきた上でのていたらくなのである。そこを否定されると立つ瀬がない。
 立つ瀬がなくても仕事をしないわけにはいかない。

 昔、友人との愚談で「われわれは仕事がきらいなわけでも、社交性がないわけでもなく、ただ、そのための燃料のようなものが、ちょっと人より不足しているだけではないか」という話になった。
 わたしは「そうなんだ、そのとおりだ」と同意した。

 たとえば、コタツにはいって酒を飲んで寝っ転がっているときはわたしはよく喋る。あるいは原稿を書くのも、机の前に座っている時間は一日三時間くらいが限度だが、布団の中であれこれ考えている時間はかなり長い。
 脳というのはものすごくエネルギーをつかうといわれている。おそらく、どうでもいいことを考えてばかりいるから、疲れるのである。
 その結果、からだを動かしたり、人前で明るくさわやかにふるまったりするための燃料が足りなくなってしまうのではないか。
 つまり、こんな屁理屈ばかり考えているから、社交性がなくなってしまうのである。

 三十代後半くらいから、わたしはあちこちに行ったり、外で飲み歩いたりする機会が増えたのは、二十代のときよりも考える時間が減ったからかもしれない。
 自分の考えていることをブログに書くことによって、書いたことの続きから考えることができるようになった。長年の堂々めぐりの蓄積によって、思考の省略が可能になった、ともいえる。

 その分、文章が薄味になってきているという自覚もある。掘下げなくてもいいことを掘下げたり、考えなくてもいいことを考えたり、そうした非効率な作業をどんどんしなくなっている。

 言葉にする前にジタバタする時間も減ってきている。

……話がどこに向かうかわからなくなっているけど、続ける。