遠藤哲夫(エンテツ)さんの「ザ大衆食つまみぐい」を読んでいて、「あっ」と声が出そうになった。
盛岡の雑誌『てくり』のことを紹介している文章なのだが、さらっと深いことが書いてある。
《この雑誌の肩書には、「伝えたい、残したい、盛岡の「ふだん」を綴る本」とあるのだが、おれがおもうに、「ふだん」を語るのは、とても難しい。
たいがい、「伝えたい」「残したい」ものは、「ふだん」「ふつう」より、なにかしら「特別」で「非日常」で「群をぬいている」ことに寄りかかって偏りがちだし、世間の「文化財」だの「職人技」だの、「まちの誇り」というものは、そういうことで伝わり残っている》
《それは、とりもなおさず、「ふだん」「ふつう」の生活を上手に語れない、なにかしら人前で語るとなると、そこに「文化的」「芸術的」に高度な雰囲気をもたらす「言葉」が必要であるという》
もちろん、遠藤さんはそうした高度な「言葉」を肯定しているわけではない。
田舎にいたとき、わたしは「文化的」「芸術的」な雰囲気に飢えていて、自分も都会に出て、そういう世界で生きたいとおもい続けてきた。
そのせいか「ふつう」と「特別」に引き裂かれた、どっちつかずの中途半端な状態に陥りがちである。今もそうだ。だから「ザ大衆食つまみぐい」を読んで考えさせられた。
つい「印籠語」もつかってしまうし……。
でも「あっ」と声が出そうになったのは別の理由。
上京後、十代後半のかけだしのフリーライター時代に憧れていた人がいる。
文章も好きだったが、酒の飲み方や遊び方が、まぶしいくらいかっこよくおもえた。
たまにホームパーティーのようなものをひらくと、薄汚いかっこうをしたわたしやギター小僧だった友人をまねいてくれた。
部屋には、民族楽器がいろいろ転がっている。「なにかやれ」といわれると、友人と即興で歌をうたったり、踊ったりした。
怒るとちょっと(かなり)怖いところもあったけど、後にも先にもあんなに心をこめて若者を叱咤激励する人には会ったことがない。
その人の名前が今回の遠藤さんのブログに出てきておどろいたのである。
《林みかんさんは、なぜ呑み屋を始めたかについて、こう語る。「店をやろうと思ったのは、わりと最近。ある日、ふっと。つれあいが亡くなって、そう頻繁に人を招いてばかりもいられないし料理欲を満たすという意味では、店をやるのがいいかなと」》
東京から盛岡に移住するという話を聞いたときは、正直「なんで?」とおもった。
十年前、花見の季節のころ、みかんさんの家に遊びに行ったら、その疑問はすぐ氷解した。
地元の不良中年が次々と集まってきて、歌をうたったり、楽器をひいたりする。庭に桜の木がある家で手料理と酒をごちそうになった。
夜、酒を飲みながら、いっしょにRCサクセションのライブビデオを観た。
いっぺんで盛岡が好きになったくらい楽しい時間だった。
みかんさんからすれば、それが「特別」でも「非日常」でもない、「ふだん」の生活なのだとおもう。
まだ盛岡の「みかんや」には行ったことがない。
※ザ大衆食つまみぐい 「ふだん」を上手に語る『てくり』の魅力。