二〇〇六年八月にブログ「文壇高円寺」をはじめた。最初は非公開にして自分の未発表原稿と未完成原稿の整理をしていた。
その一年前にパソコンが壊れ、数ヶ月分の原稿が消えた。バックアップをとればいいのだが、忘れる。原稿をブログに載せておけば、データが残る。後に推敲がしやすいことにも気づいた。
しばらくして古書現世の向井さんとブログ「退屈男と本と街」の退屈君と高田馬場の居酒屋で飲んでいて、「ブログをはじめたんだけど」というような話をして、非公開から公開に切り替えた。
五年前、何してたかなあ。
当時というか、今でもなのだが、わたしは二十代のころからずっと古本屋のある町に住んで、どんな形でもいいから本に関する仕事がしたいとおもっていた。
夢とか目標とかではなく、それ以外の仕事を続けられる自信がまったくなかった。
仕事や人間関係がうまくいかず、何もする気になれないときでも、近所に古本屋があって、一冊百円くらいの文庫を買って、家に帰って読めば、それで一日乗り切れる。しかも、生活がしんどいときほど、読書がおもしろくなるという法則もある(だからといって、わざと苦しい生活を送ろうとはおもわないが)。
*
秋花粉の症状らしきものが出ている。今年は七月下旬から、クシャミが出はじめた。花粉症の薬(漢方)を飲んだら、すぐおさまったが、微熱は続いていて、睡眠時間が毎日五、六時間ずつズレていく。
例年八月中旬か下旬くらいだから、こんなに早く来るのは珍しい。夏風邪かもしれない。
その日その日のかろうじて頭の働く時間をつかまえて原稿を書いている。それ以外の時間はたいていぐったりしている。そういう生活をしていると、なかなか他人と協調して何かいっしょに行動することができない。
自分の体調や性格を考慮した上で最善を尽す。
やりたいこともやりたくないことも、すべて自分の条件に左右される。多くの仕事は、自分の条件だけではうまくいかない。
半人前の癖にわがままばかりいうことは、なかなか許されないのが現実である。半人前だからこそ、自分の条件に合ったことしかできないともいえる。
もし有能だったら、こんなふうにはなっていない。
いろいろな本を読んできたけど、まず自分の条件と合致する人はいない。でもどこかすこしでも重なるところがあれば、もうけものだし、まったく重ならない場合も、自分の進む方向ではないことがわかる。
そうこうするうちに、汎用性のない自分の条件のようなものがすこしずつ見えてくる。
見えたからといって、何がどうなるわけではない。ただ、自分の条件に合わないことを諦められるようになる。
それがいいことなのかどうかは一概にはいえない。