例年よりすこし早い秋花粉、久々に歯医者で麻酔、寝不足、湿度その他もろもろがたたり、風邪をひく。熱さまシートをおでこに貼って、保冷剤でノートパソコンを冷やしながら、仕事をする。
コピー資料が散乱し、どこになにがあるのかわからない。
今日火曜日発売の『サンデー毎日』で、星野博美著『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋)の書評をしました。
ちょうど読みたいとおもっていた本を編集部から依頼されたのでおどろいた。担当者は、わたしが星野博美のファンだということを知らなかったみたい。
本の紹介に専念しようと、自分の話は書かなかったのだけど、わたしの父は三重県鈴鹿市の自動車の下請け工場の労働者、母は伊勢志摩の漁師町出身ということもあり、漁師と町工場勤めの親族に囲まれた星野家のルーツの物語を興味深く読んだ。
すこし快方にむかってきたので、中野ブロードウェイに行き、古書うつつで『季刊アーガマ 文藝特集 川崎長太郎 その世界』を買う。
店でパラパラ読んでいて、保昌正夫さんの「川崎長太郎の徳田秋声」の中にあった一文に目が止まる。
《「私小説」の作家は繰返し(バリエーション)によって自身の創作方法の確認をとってゆくのだ》
同じようなことを書きながら、すこしずつ変わっていく。
川崎長太郎もそうだし、作風はちがうが、尾崎一雄もそういう作家だ。
言葉の背後にあるものはなかなか出てこない。ぴったり合う表現が見つからない。何かがちがう、どこかがちがう。書いてみないと、そのちがいに気づかない。気づくのは、一日後のこともあれば、十年後、二十年後のこともある。
川崎長太郎は、同じテーマを何度も繰返し書きつつ、そのたび、小さな工夫や変化を重ねている。
その持続力(執念)を見習いたい。
もうすこしバリエーションも増やしたい。