……色川武大著『うらおもて人生録』(新潮文庫)に「一歩後退、二歩前進——の章」を読み返す。
まず、ストリップの話。
はじめは“額縁ショー”という裸の女の子が有名な絵画のポーズをとっているだけのステージだった。
大入り満員になったが、そのうちあきられる。客は、もっと刺激の強いショーを求め、どんどんエスカレートする。でも新しい工夫もすぐ慣れてしまい、「刺激の自転車操業」になり、ショーの限界をこえて、行きつくところまで行ってしまう。
《それでもうこれ以上やることがなくなってしまって、終わりだ》
さらに、こうしたはじまりから終わりまでの「ワンサイクル」の例をいくつかあげているのだが、省略する。
《一人が、ただ前に突っ走るだけではワンサイクルですぐに終わってしまう。自然の知恵というものはよくしたもので、前進のエネルギーとともに、たえず後退することもやってるんだね。それでなんとかサイクルをひきのばす。つまり、しのいでいるわけだ。(中略)物事というものは自然のエネルギーにまかせると、あっというまに終わっちまうものなんだ。そこをなんとか、だましだまし、ひきのばしていかなきゃならない》
斬新さや過激さを求め、進歩することだけを考えていると、ストリップショーと同様、衰退を早めてしまうことにもなりかねない。
ワンサイクルで終わらせないためには、意図してサボタージュをする必要がある。
昔、読んだときは、観念では「なんとなくそういうものかな」とおもっていた。今は「だましだまし、ひきのばして」いくことの大切さが身にしみてわかる。
もちろん進歩自体を否定しているわけではない。ただ、作用と反作用を見極めながら、「一歩後退、二歩前進」くらいの感覚をもつこと。
「後退」と「前進」の配分はどのくらいにすればいいのか。
立ち止まることはできても、後ろに戻るのはほんとうにむずかしい。
最近、若い知人とちょっと話をしたとき、ワンサイクルの壁にぶつかっているかんじがした。
もっといいものを作りたい。
昔のほうがよかったといわれる。
今いる場所から前に進むのではなく、後ろに下ってやり直すのはものすごく骨が折れる。時間も倍かそれ以上かかる。
どうすればその時間を作ることができるのか。
それもまた難題である。