……昼メシを食いに出かけ、古本屋をまわって、家に帰ると、郵便受けに冊子小包が入っていた。
封をあけると、名古屋のシマウマ書房が企画・編集した八木幹夫著『余白の時間 辻征夫さんの思い出』という新書サイズの冊子が入っていた。
わたしは辻征夫の詩、エッセイが好きで、とくに三十代の半ばごろは、心の支えとして読み続けてきた。もちろん今でもしょっちゅう読み返す。
『余白の時間』の中に、辻征夫はトルストイの『戦争の平和』に出てくる言葉のコピーをいつも持ち歩いていたエピソードがある。
《おのれのために、何物をも望むな。求めるな。心を動かすな。羨むな。人間の未来もお前の運命も、お前にとって未知であらねばならぬ。とはいえ、いっさいにたいする覚悟と用意とを持って生きよ——》
辻征夫著『詩の話をしよう』でもこの話は出てくる。
このトルストイの言葉の前に次のようなことを語っている。
《僕はくたびれちゃったけど、これから書こうとするひとや、まだまだ書き続けてほしいひとに言いたいのは、やっぱり、何年書いても、いくつになっても基本は同じだということ。生涯無名でいいやって覚悟がないと駄目だと思うんだ》
文章を書く仕事をはじめて二十年以上になる。無名でいいやというよりは有名になりそこなっているだけともいえるのだが、それでも辻さんがいうような「基本」や「覚悟」はときどきゆらぐ。書くことの楽しさやどうしても言葉にしたいという強い気持はどんどん磨り減っていく。
それでも戻らなければならない場所のようなものだけは忘れないようにしたい。
辻征夫はその目印になる。