昨晩、古山高麗雄著『他人の痛み』(中公文庫)を再読した。
《自信と自惚れとをどこで分ければいいのだろう?》
「ロバの鼻先のニンジン」と題したエッセイはそんな問いからはじまる。
《人が生きるということは、他人は結果で批評するだろうが、本人には、そのプロセスの中で、何とどうつきあうかということである。自信があるかないかということは、私には重要なことだとは思えない。ましてその自信が自惚れであり、そのことに自分で気がつかないなどというようなことになれば、それは、その人の人生を貧しくしてしまうことにしかならないのではあるまいか》
古山さんは小説家の自信についても語る。
小説を書いたとしても、結果らしい結果が出るわけではない。結局、売れた数字ではなく、自分で自分を評価するしかない。
《その場合、なまじっか自惚れと分かち難い自信などがあれば、眼がくもることになる。(中略)といって、なんらかの意味で自信がなければ、小説など書けるものではない》
古山さんはどんな自信を持とうとしているのか。それがこのエッセイのオチである。
もうすこし自信を持ちたいとおもっていたところ、古山さんはもっと難度の高い境地を模索していたことを知り、「まいりました」と心の中でつぶやいた。