2016/02/03

努力の才能

 毎年のことだが、冬は寝起きがつらい。子どものころからそうだった。苦手意識は克服できないものだ。長年の(自分)統計によると、気温が十度以下になると心身ともに不調になる。

 二十代のころは体力のなさを気力で補えると考えていた。三十代のある時期からその考えを捨てた。
 心にからだを合わせるよりもからだに心を合わせるほうが楽である。

 色川武大の「欠陥車の生き方——の章」(『うらおもて人生録』新潮文庫)の教えは助けられた。欠陥車だから、急発進急停止はしない。スピードも出さない。からだや頭の働きがよくないときはよくないなりに最低限のやるべきことをやればいい。年々、自分を操縦する、運転するという技術は長けてきている(とおもう)。

 英和辞書で「natural」という単語をひいたら、「自然の」「生まれつきの」「天性の」といった意味だけでなく、「無理がない」という訳語があった。
 ここ数年、個性や才能というのは、自分の身体性に限定されているとおもうようになった。
 からだが弱々なのに、短気だったり強気だったりすると疲れる。からだの弱さに合わせて気持をゆるめる。長年、試行錯誤を重ねるうちにそういう感覚がすこしずつ身についてきた。

 最近、気になっているのは「努力の才能」という言葉だ。努力せずに、達成できるレベルには個人差がある。努力なしに達成できる地点の先に行くには努力するしかない。そんなに努力しなくても、そこそこのレベルに達してしまえる人は、天性の才能の持ち主かもしれない。ただ、そういう人は努力の仕方がわからない。むしろ技術や技巧を獲得していく過程で苦労したタイプのほうが、努力のノウハウをたくさん持っている。

 弱いからこそ身につく才能や不器用だからこそ宿る才能がある。「努力の才能」がないとおもっている人は、努力できることを探すところからはじめるしかない。自分を強化していく努力ではなく、コントロールするための努力もある。

 起きてから二、三時間は役に立たないからだにしては自分はよくやっている。そうおもうと気が楽になる。