……二十代半ばから三十代後半くらいまで、わたしは「古本好きのフリーター」という立場で文章を書くことが多かった。定職についたことがなく、ずっと不安定な生活をしている「わたし」が文章を書いたところで、何の説得力もない。
どんな立場であろうと「私」には属性や肩書がつきまとう。それらから自由に「私一個の見解」を綴るのは簡単なことではない。また「私」と「現実の自分」は、時間の経過とともにズレていく。
昔の文章の「わたし」と今の文章の「わたし」は同一人物だけど、別人でもある。昨日と今日でもちがうことがある。
すこし前にテレビのコメンテーターの経歴詐称が話題になったが、出自や経歴や肩書の力なしに「私一個の見解」を伝えるには、何かと面倒なことが多い。
いっぽう、いちど肩書がついてしまうと、そこに縛られる。仕事の依頼者は「元○○」や「現○○」の視点を求めてくる。当然だろう。
縛られるものがないほうが、自由に文章は書ける。しかしわかりにくいものになることもある。「私一個の見解」の「私」が何者かわからない。匿名かそうでないかという話は関係がない。匿名でも「私一個の見解」を書き続けているうちに、ある種の「キャラ」もしくは「役割」のようなものが出来上がってくる。
その「キャラ」や「役割」と現実の自分があるていど一致しているうちは問題はない。しかし、それも時間とともにズレていく。ズレをなくそうとしすぎるとおかしな文章になる。
生活だけでなく、趣味嗜好は変わり続ける。その変化に文章が追いつかない。「私一個の見解」を綴るには「私」を微調整しないといけない。その微調整を怠ると、文章の「私」と現実の「私」のズレが大きくなってしまう。
四十六歳の鮎川信夫は四十年前に書かれた津田左右吉の「日信」を読んで、こんな感想を述べる。
《すきなことをすきに書いて、そこに、てらいもなければ無理もなく、余裕しゃくしゃくとしているのである》
どうすれば、そういう文章が書けるのか。その鍵は「ぼんやりした知識」だと鮎川信夫は述べている。「私一個の見解」もまたそうした「ぼんやりした知識」から抽出されたものかもしれない。
……続く。