2016/08/16

自足と寛容

《限りある時間と労力は、好きなことに注いだほうがいい、無駄ではないが、得るものが少ない努力はしない――というのが、自分の生き方の原則になっている》

……と、書いたが、言葉足らずだった。好きなことをやって食べていけるのであれば苦労はない。わたしは家で寝ころんで本を読むことが好きだが、当然、それでは仕事にならない。

 大学を中退して、フリーライターになって食っていけなくなったらどうするか。温暖な土地に移住し、畑を耕し、鶏を飼い、お金をつかわない生活をしようとおもっていた。ようするに、将来のことは考えてなかった。

 橋本治著『ぼくらの未来計画 貧乏は正しい!』(小学館文庫)を読む。シリーズの最終巻だ。

《「“仕事”とはなんだろう?」ということになったら、「他人の需要にこたえること」である。需要がなかったら、“仕事”は“仕事”として成り立たない》

 とはいえ「他人の需要にこたえること」だけが仕事なのか。他人の需要にこたえつつ、自分がおもしろいとおもうこともできるのではないか。他人の需要にふりまわされて、自分を見失うこともあるのではないか。

『ぼくらの未来計画 貧乏は正しい!』では「自給自足」を理想とする考えに疑問を投げかけている。

 自給自足は不自然な禁欲状態を強制し、「貧しさを維持すること」で成立する。

《カツカツの自給自足が、自給自足の状態としては理想的なのである。だから、自給自足は排他的になる。他人のことを思いやれるほどの豊かさがないからこそ、“カツカツの自給自足”なのである》

 たしかに“カツカツの自給自足”では「他人」を受け入れることができない。
 二十代のころのわたしは自分がどうにか食べていければいいと考えていた。三十代になっても、最低限の生活費だけは稼いで、あとは遊んで暮らしたいとおもっていた。

 そうした理想は他人にたいする「不寛容」にもつながる。でも「寛容」な「自足」の道もあるのではないか。この問いは、「自給自足」だけでなく、今の必要最低限のものだけで暮らすことを理想とする「ミニマリスト」といわれる人とも無関係ではない。