2016/08/08

言葉があれば

 神保町で仕事、そのあと馬橋盆踊りに行く。高円寺駅から会場に直行し、ラスト十五分、汗だくになる。ひさしぶりに外飲み(といっても水割三杯)。お盆進行で酒を控え気味だ。ひまになりすぎないていどにのんびりしたい。

 日曜日、古書会館。暑い(会場の外)。十五、六年前の野球本が安くたくさん出ていた。

 自分の年齢が五十歳が近づいてくると、ふと「百年ってだいたいこの倍か」とおもう。若いころと比べると、百年、二百年といった歴史が理解できるのではないかという気がする。錯覚かもしれないが。

 中村光夫が四十代以降、文学よりも歴史に興味が向かうようになったというようなことをいっていたが、その気持もわかるような気がする。
 十代、二十代のころのわたしは、そのときどきの自分の心理状態、感情をあらわす言葉が足りなかった。言葉が足りなくて、何が何だかわからず、もやもやしたり、苛々したりすることがよくあった。

 フリーライターが仕事のない時期は無職と変わらない。貯金を切り崩し、本やCDを売って、売るものがなくなったら、アルバイトを探す。
 そういう時期に「就職しろ」とか「だから、おまえはダメなんだ」といわれると返す言葉がない。弱っているときに自分を否定する言葉を浴びても何もいいことがない。むしろ害悪にしかならない。

 言葉をたくさん知っていれば、楽になるというわけではないが、ないよりはあったほうがいい。