年末年始、三重に帰省する。父が亡くなってから、はじめての正月。
元旦は午前中、コメダで珈琲。昼から久しぶりにイオンモール鈴鹿(ベルシティ)に行ったのだが、人が多すぎてすぐ出る。その隣のイオンタウン鈴鹿へ。ラーメンを食べて、ニトリと地元農産物直売わくわく広場などに行く。
二日、墓参りのあと、神戸城(神戸公園)に行く。いつの間にか、郷里の家の近くから神戸城付近まで遊歩道が整備されていた。鈴鹿に滞在中、一日平均二万歩くらい歩く。今年の正月は暖かかった。
昨年の暮れ、岩明均の『寄生獣』、年明け、東京に帰ってきてから荒川弘の『鋼の錬金術師』を読む。
どちらもラストの記憶がぼんやりしてきたので、あらためて通読した。ときどき読み返さないと忘れてしまう。
録画していた年末のプロ野球の戦力外通告の番組を観る。
加齢、ケガ。スポーツの世界は厳しい。フリーランスの生活も楽ではない。いつまで「現役」を続けられるのか。新年早々そんなことばかり考えている。
四日、神保町。神田伯剌西爾、小諸そば。電車の中で芝木好子著『春の散歩』(講談社文庫)を読む。
《私の暮す町高円寺へ初めて来たのは昭和十五年頃である。新宿から四つ目の駅は郊外のちょっとした町で、商店街をぬけると静かな住宅地が幾筋も伸びていた。今もこの環境はあまり変らない》(わが町)
《東京の中央線沿線に住む私は、こまごまとした住宅の並ぶ横町に四十余年も住んで、朝夕、犬をつれて散歩してきたから、路地のことならなんでも知っている》(横町の散歩)
芝木好子が高円寺にいたのを知ったのは最近のことだ。「横町の散歩」の初出は読売新聞(昭和六十年三月三十日)である。亡くなったのは一九九一年八月。享年七十七。家は、高円寺と阿佐ケ谷のちょうど中間くらいにあった。
わたしが高円寺に暮らしはじめたのは一九八九年の秋、かれこれ二十七年。今でも道に迷う。
『春の散歩』を読んでいたら、こんな記述もあった。
《締切の迫る仕事を早く始めなければならないのに、ぎりぎりへ来てから本を読み出すことがある。なにも今読まなくても、と自分でも思うけれどペンを持つ気になれないで、一日読みふける。これは私だけかと思ったら、中野重治氏の随筆にも同じことが書いてあった》(相聞歌)
中野重治の随筆が気になるが、これから仕事する。