2019/02/12

橋本治さん

 橋本治の訃報は先週の『AERA』の記事で知った。

 この数年、訃報が日常のような日々が続いていて、人の死にたいして、ちょっと麻痺していた。一々動揺していたら、仕事に支障が出る。
 だけど、橋本治の訃報は堪えた。

 高校時代、一九八〇年代半ばにファンになり、その後、今に至るまでずっと新刊を読み続けている作家は橋本治だけだ(著作が多すぎて、時評しか読まない時期もあったが)。
 上京後、一九九〇年に『'89』(マドラ出版)が刊行された。『'89』のインパクトはすごかった。わたしの周囲の本好きの友人の部屋にはかなりの確率でこの本があった。

『'89』が出た翌年の一九九一年から『ヤングサンデー』で「貧乏は正しい!」という連載がはじまった。八〇年代半ばから九〇年代半ばごろまで、漫画雑誌の「活字」の頁は、読みごたえのある連載が多かった。中でも空前絶後の最高傑作が「貧乏は正しい!」だとおもっている。
 一九九二年の夏、「貧乏は正しい!」の橋本治七十二時間耐久合宿という企画があり、応募して参加した。当時橋本さんは四十四歳。今の自分より若かったとおもうと不思議なかんじだ。
 橋本さんの合宿の年、わたしは大学四年目で卒業できる見込みはゼロという状況だった。大学を中退するかどうか迷っていたとき、この合宿に参加し、橋本さんから「卒業証書(修了証書)」をもらい、気持がふっきれた。これで十分だとおもったのだ。
 一度だけ橋本さんの事務所に行ったこともある。

 このブログでも何度か『貧乏は正しい!』(小学館文庫、全五巻)について書いているが、このシリーズは年に一回くらいは再読している。年末年始、郷里の三重に帰省したときにまとめて読み返すことを自分に課していた時期もある。

《過疎が起こるということは、その場所が、「そこに生まれてそこで育って来た人間の欲求に合わなくなってしまっている」ということだ。だから、過疎がいやなら、その場所を、そこで生まれ育って来るような人間の欲求に合うように変えて行けばいい。ちょっとずつでも、未来の欲求に合わせて、自分たちの現状を変えて行くということを、そこに住んでいる大人たちがすればいい——すればよかった。
 でも、そういうことをしなかった。そういう必要性を理解しなかった。だから、過疎というものは、あっという間に日本全国に広がってしまった。過疎というものは、今やイナカにだけ起こるものではない》

 シリーズ三巻目の『貧乏は正しい! ぼくらの東京物語』の言葉である。
 これほど自分が当事者だとおもえた本は読んだことがなかった。なぜ自分はイナカを離れ、東京に暮らし、そして帰るに帰れなくなっているのか(当然、自業自得という面もある)。自分の置かれている状況を的確な言葉に置き換えることで、世の中の見え方が変わってくる。
「わからない」ことを考える。自分の「わからない」ことを見つける。そうした思考法は橋本さんから学んだ。

 すこし前に『橋本治という立ち止まり方』(朝日新聞出版、二〇一二年)を再読した。この本が出たあたりから病気の話が増えてきた。

《現実社会では経験がものを言う。いくら新しい理論が登場したって、それがそのまま現実社会に適応できるわけはない。(中略)現実と理論の間では、さまざまな妥協が必要になって、その妥協を実現させる主体は、現実の中で生きて、「経験」を体現している人達だ》

《経験則で生きて来た人間と、新理論で生きる者の断絶は、「戦後日本」というものが誕生した時に「将来的な必然」として生まれていたものだろう》

 橋本さんはこの「経験則」と「経験値」の話をくりかえし書いてきた。橋本さんは、何度となく、もう若い人向けのものは書かない、時評はやめる——といっていたが、結局、一度も立ち止まらずに「時評のようなもの」を書き続けた。

 橋本さんの仕事はひとりの人間にこなせる量ではなかった。大きな空白ができた。その空白をどう埋めればいいのかわからない。