二〇一四年春あたりからずっと同じメーカーのウォーキングシューズ(かかとの部分にエアクッションが入っている)を履き続けていた。ただし、ここのところ、最初に買ったころと比べて数千円値上がりしていたので、もうすこし安い靴も試してみようと別のメーカーのものを買ってみた。値段は半額。軽い。体重が足の裏全体に分散している感じがして楽だ。膝への負担感もない。
しばらく新しい靴で歩きまわった後、前の靴を履いたらすごく重たく感じる。すでに違和感がある。人体は不思議である。
福原麟太郎の『命なりけり』の流れで『西行全歌集』(岩波文庫、二〇一三年)をぱらぱら読んだ。西行、鈴鹿の歌もあることを知る。
「鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになり行くわが身なるらん」
「命なりけり」の歌は「西行法師集」のところにある。
「年たけて又越ゆべしと思きや命成りけり佐夜の中山」
巻末の初句索引を見ていたら「秋来ぬと」の歌もある。
「秋来ぬと風にいはせて口なしの色染めむる女郎花かな」
福原麟太郎の「秋来ぬと」は随筆の一行目に古今集の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども、風の音にぞ驚かれぬる」を引いているので、西行の「秋来ぬと」からとった題ではない。
街道歩きをはじめて以来、行く先々で西行と芭蕉の歌碑句碑を見かける。この二人は本からではなく、街道を通してなじみになった。芭蕉は西行の歩いた後をけっこうなぞっている。
芭蕉にも鈴鹿山の句がある。
「ほっしんの初に越ゆる鈴鹿山」
郷里にいたころ、わたしは西行や芭蕉にまったく興味がなかった。郷土文学や郷土史にたいする関心の高まりも老いのひとつのあらわれなのか。