八月下旬、猛暑日が続く。例年以上に湿度が高いように感じる。散歩を続けているうちに風通しのいい道とそうでない道があることに気づく。高円寺の場合、東西の道がよく風が通る。
稲垣達郎著『角鹿の蟹』(筑摩書房、一九八〇年、講談社文芸文庫)に尾崎一雄のことを書いた「本ならびに柳純三」「ある小春日のひとこま」の二篇あり。
稲垣達郎は早稲田の高等学院時代、尾崎一雄の一年後輩で当時から知り合いだった。稲垣は尾崎の下宿を訪れたとき、(学生でありながら)「下宿に、こんなに本をもっている」ことに驚嘆する。
《明治期の文藝書の、そのころすでに珍本にぞくしていたものや、限定版の詩集——私家版『転身の頌』などのたぐいが豊富だった。『月に吠える』初版のごときは、岩野泡鳴宛の贈呈署名本であり、ところどころに泡鳴の書入れがあった。「ARS」「朱欒」など、手に入れにくくなっていた雑誌もそろっていた》
そんな回想から尾崎一雄の習作時代の詩や短歌の話になる。詩の題は「焦心」——一九二三年二月「映像」創刊号(文藝部の詩誌)が初出らしい。
学生時代の尾崎一雄は「柳純三」の筆名をつかっていた。
《をぐらい春の
うすべにいろの寂しさを
歪んだこころにしなしなとかんじ
憂愁の影長く
とある針葉樹林にさまよひ入った》(「焦心」抜粋)
尾崎一雄、二十三歳の詩。稲垣は柳純三名義の詩について「朔太郎風」と評している。もし柳純三として詩作を続けていたら、後の「暢気眼鏡」や「虫のいろいろ」は生まれなかった。
「ある小春日のひとこま」は、冒頭付近で明禅法師の「しやせまし、せずやあらまし」(『徒然草』)を引いている。
するかしないかで悩むようなことは、たいていしないほうがいい。たしかそんな話だ。
稲垣は「本ならびに柳純三」について余計なことばかり書いてしまったのではないかと……。
「ある小春日の〜」では尾崎一雄が斎藤茂吉の歌を愛唱していた逸話を紹介している。尾崎一雄は、何度となく随筆その他で俳句や短歌の話を書いているが、わたしはそんなに関心がなかったので読み飛ばしていた。最近、昔の詩歌や古典に出てくる地名に興味があって、古書会館でもそういう本に手が伸びるようになった。