土曜日、四年ぶりの高円寺阿波踊り。午前中、西部古書会館。辻井浩太郎著『郷土新書24 三重縣新誌』(日本書院、一九五一年)、堀淳一、山口恵一郎、籠瀬良明著『そしえて文庫94 地図の風景 近畿篇Ⅲ 奈良・三重・和歌山』(そしえて、一九八〇年)など、郷土史本を買う。
午後、阿佐ケ谷散歩。古本屋めぐり後、夕方、高円寺に帰る。茶処つきじで緑茶ハイ(いつもこの店でほうじ茶を買っている)。あづま通りの出店でナポリタン、炒飯など。日曜の阿波踊りでは庚申通りの焼き肉屋の牛カルビ串(一本二百円)を買う。この二日間、祭り飯を堪能した。阿波踊りは歩きながら人だかりの隙間から見たくらい。
新城常三著『鎌倉時代の交通 日本歴史叢書 新装版』(吉川弘文館、一九九五年)を読む。第一版は一九六七年刊。著者は一九一二年生まれ。三鷹市(井ノ頭)に住んでいた。
《美濃は律令制度上は東山道に属するが、中世においては実質的には東海道である。すなわち鈴鹿峠越えの伊勢路が衰頽して、平安末以降、東海道は尾張を北上、美濃・近江を経由した》
中世に東海道が伊勢廻りから美濃廻りになった理由が知りたいのだが、よくわからない。中世の交通の発達は都と各地の荘園の輸送が関係している。徒歩の旅ではなく、荷物を運ぶためのルートとなると、鈴鹿峠や木曽三川の河口付近(湿地帯)を通る伊勢廻りより、美濃廻りのほうが楽だったのかもしれない。
重い荷物を運ぶ。人手も手間もかかる。遠くからものを運ぶ場合、輸送コストの問題も生じる。人件費その他を考えると、遠くから米などの重い荷物を運搬するのは割に合わない。だから地域によって荘園から中央に運ばれる貢納品はちがう。
たとえば、中世の東北は金や馬が“年貢”だった。馬で移動することを考えると美濃廻りのほうが、川を渡る伊勢廻りよりも安全だった。中世の東海道が、伊勢路から美濃路になったのは馬も関係しているかもしれない(確証はない)。
東海道は季候が温暖で道も平坦なところも多いが、河川は「年中行事のような増水・氾濫」があり、「交通上の困難と障碍の重み」は予想以上だった。いっぽう道や宿場、橋の整備が進むにつれ、東海道の利用者が急増する。
『鎌倉時代の交通』によると、鈴鹿峠を越える東海道は「平安中期よりこの道路は裏街道化した」とある。
鎌倉幕府は「美濃路に駅制を設置して公式に新東海道と定めた」そうだ。
鎌倉期の美濃路廻りが、江戸期に再び伊勢路廻りになる。さらに明治の鉄道の時代になると東海道本線は美濃路、近江路廻りになった(このあたりのことも今調べている)。
東海道の一地域だけでも時代によってルートが変わる。たぶん今わたしが「わかっている」ことも数ヶ月後には変わっている可能性が高い。
それでも地理や歴史の知識がすこしずつ増えていくことで『更級日記』や『十六夜日記』など、これまで興味のなかった古典文学が面白くなる。