土曜、西部古書会館。未読の古典を数冊、吉田幸一、神作光一、橘りつ編『歌枕名寄』(古典文庫、一九七四年)の二、三、四巻など。家に帰ってから『歌枕名寄』は八巻まであることを知る。揃いで買ったほうが安くすむパターンか。いいってことよ。四巻は伊勢国の歌枕も収録——わたしの郷里の三重県鈴鹿市の近辺は、鈴鹿山、鈴鹿河(川)が歌枕である。鈴鹿峠は三重県亀山市(かつては鈴鹿郡)、滋賀県甲賀市にまたがっていて鈴鹿市ではない。
夕方六時すぎ、晴れの日一万歩の日課のため、荻窪に散歩。ずいぶん日没が早くなった。かかとがすり減った靴で歩くと、なんとなくだが疲れやすい。気のせいか。
九月中、仕事がつまっているのだが、その先はほとんど予定がない。四十代のころは予定がないとすぐ不安になったが、今はわりと平気というか、「その分、本が読めるやん、歩けるやん、部屋の掃除できるやん」とおもえる。メンタルが強くなったのか、鈍くなったのか。
古書ワルツで松尾一著『岐阜県の中山道(新版)』(まつお出版、一九九三年)を買う。郷土史家の街道研究は勉強になる。
同書「赤坂宿から垂井宿へ」に青墓の話が出てくる。
美濃赤坂は中山道の宿場町だが、もともとは旧杭瀬川の湊があった。水運が盛んだった土地で伊勢湾にも船が出ていた。杭瀬川は一五三〇年の大洪水で大きく流れが変わった。
《青墓の集落は東山道の駅があったところで、このあたりに長者屋敷があった。代々源氏にゆかりある青墓の長者大炊氏は、平治の乱で落ちのびた源義朝と長男儀平、次男朝長、三男頼朝を助けているが、次男朝長はここで亡くなり近くの円興寺に葬られた》
他にも青墓には源義経に関する話、歌舞伎や浄瑠璃の「小栗判官」の照手姫にまつわる伝承も残る。照手姫は相模の国のお姫様——ということをネットで検索して知る。JR相模線の上溝駅周辺にてるて通り、てるて橋がある。
青墓の地名の由来は諸説あるが、周辺に古墳がいくつか存在することから「大墓(王墓)→青墓」となった説が有力らしい。
旧街道沿いは古墳がたくさんある。古墳があったから道ができたのか、人の往来が多い道だったから古墳ができたのか。
先に道があったと考えるほうが自然だろう。ただ、古墳やら神社やら寺やらができてから、地名がつくこともよくある。歌枕の地名の由来を調べるのも面白そう。
西行や芭蕉の旅は、歌枕探訪が目的だったという話もある。わたしもそういう旅がしたい。