土曜昼、西部古書会館。『歴史と文化の散歩道』(東京都政策報道室、一九九六年)など。『歴史と文化の散歩道』は大判、二百四十頁、カラーで定価は千二百六十円。「杉並コース」の高円寺駅から平和の森公園、北野神社、新井薬師前駅などを通る三・八キロ。いい感じの散歩道だ。
日曜、中野の古本案内処に行き、そのあと新井薬師、沼袋、野方と歩いてバスで高円寺に帰る。平和の森公園の近くのライフでベーコンエピを買う。
古本案内処で『東路記 己巳紀行 西遊記 新日本古典文学体系』(岩波書店、一九九一年)など。『東路記』『己巳紀行』は貝原益軒。『西遊記』は橘南谿。家に帰って『東路記(あづまじのき)』を読む。面白い。すごい。
東海道で宮(熱田)、それから美濃路を歩く。
《青墓は、昔の宿駅なり。今は小里なり。町なし。名所なり。古歌有。長者が屋敷の跡有り。朝長の社は、青墓の西の道より北の谷のおくに四五町にあり》
益軒、地理+歴史の紀行文で陸路以外のルートもいろいろ記している。
《上方より下る道筋は、今洲より関ヶ原へゆかずして、関が原の西より南へわかれ、東へ行く。牧田と云宿、今洲より二里、牧田の東に高田といふ宿あり。其東に、唐末と云所有。是。大垣の南也。唐末より河船にのり、桑名へも宮へもゆく也》
おそらく唐末は烏江か。養老鉄道に烏江駅、美濃高田駅あり。烏江駅の近くに牧田川が流れている。牧田川は揖斐川に合流し、伊勢湾に出る。
美濃の大垣と伊勢の桑名は水運の関係でかなり密接なつながりがあった。
それから『東路記』に次のような記述もある。
《吉田の川より船にのり、伊勢の白子にわたる》
吉田の川は豊橋の豊川。豊川から三河湾に出て、そのまま白子に向かったのか、それとも知多半島沿いのどこかの町から白子に渡ったのか。
徳川家康は伊賀越え(一五八二年)の後、鈴鹿の白子から岡崎に帰った(諸説あり)といわれているのだが、百年ちょっと後の貝原益軒の時代に白子と三河を船が行き来していたというのは興味深い。
貝原益軒(一六三〇年生)が写本『東路記』を書いたのは一六八五年。五十四歳。
わたしも今年五十四歳になる。運命を感じる。