日曜夕方、二日連続で西部古書会館。『坂本太郎著作集 第八巻 古代の駅と道』(吉川弘文館、一九八九年)——前の日、買うかどうか迷って棚に戻した本を入手する。名古屋以西の東海道(美濃廻り、伊勢廻り)に関する記述あり。
《鎌倉時代の東海道は近江から琵琶湖にそって北進し、美濃・尾張にかかるもので、いまの東海道線の鉄路に近いものであった。これに反し古代と江戸時代の東海道は近江から南に下って伊勢の鈴鹿をこえ伊勢から尾張に入るものであった》(「第三部 交通と通信の歴史」/同書)
『更級日記』や『十六夜日記』を読み、平安、鎌倉期の東海道は美濃廻りで、美濃の墨俣が交通の要所だったことを知った。
わたしは東海圏(三重県鈴鹿市)に生まれ育ったのだが、墨俣はなじみのない町だった。古代の美濃の国府が不破郡垂井にあったことも街道に興味を持つまで知らなかった。垂井は中山道と美濃路の追分もある。古代・中世の街道(東山道)の青墓(青墓宿)という土地も気になる。もより駅は美濃赤坂駅——東海道本線の荒尾駅と垂井駅の間くらいにあり、美濃国分寺(跡)も近い。
『古代の駅と道』には美濃の宿駅として、野上、垂井、青墓、株瀬川(杭瀬川)、墨俣、黒田、小熊の名が記されている。
《遊女記いふ所の神崎、江口、蟹島の三所を初め、淀川沿岸に於ける彼らの活動は最も旺盛である。その他の地方に於いても、肥後の遊君、青墓のくぐつの如き、才学ある者もある。相模の足柄と、美濃の野上とにゐたことは、更科日記に記される。(中略)遊女のゐる所は、殆どすべて交通の要地である。換言すれば宿駅である》(第一部 上代駅制の研究/同書)
青墓、傀儡(くぐつ)の地だったのか。墨俣と青墓あたりなら郷里の家から日帰りも可能である。