先週、池袋で打ち合わせ。目白駅から池袋まで歩く。途中、古書往来座、カフェ・ベローチェ南池袋一丁目店でコーヒー。池袋はベローチェが八店舗もある。高円寺には一軒もないので羨ましい(中野は三店舗)。
往来座では森本元子『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』(講談社学術文庫、一九七九年)など。学術文庫の『十六夜日記』は現在品切で古書価は定価の四倍くらいになっている。『十六夜日記』は鎌倉中期の日記文学——作者・阿仏尼は十代で出家し、その後、三十歳前後で藤原為家の側室になった。 一二七九(弘安二)年、阿仏尼は正妻との相続問題を幕府に訴えるため鎌倉に向かう。
阿仏尼は一二二二(貞応元)年の生まれ(推定)。没年は一二八三(弘安六)年ごろ。
同書「旅路の章」は不破の関、笠縫の駅、洲俣、一の宮などを通る美濃廻り東海道の旅の記録である。
時代によって東海道は伊勢廻り、美濃廻りなど、コースがちがう。
現在の東海道本線は中世の東海道のルートに近い。
街道史と鉄道史は密接な関係がある。「駅」という言葉にしても街道由来である。
洲俣の注に「美濃の国安八郡。源を飛騨山に発し、尾張の国との境を流れる。当時はかなり大河だったらしい。古くは『更級日記』にもみえる」とある。
《二十三日、天竜の渡りといふ。舟に乗るに、西行が昔もおもひいでられて、いと心細し》
《二十四日、昼になりて小夜の中山越ゆ》
学術文庫の解説では西行の「いのちなりけり小夜の中山」を紹介している。
西行は一一一八(元永元)年生まれ、一一九〇(文治六年)年没。阿仏尼が生まれる三十年ちょっと前に亡くなっている。年は百歳以上離れている。
阿仏尼は西行の歌だけでなく、様々な逸話にも精通している。阿仏尼にとって西行は憧れの人だった。
『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』によると、古典語の「心細し」は「『源氏物語』などで一種の美感を示す語として用いられている」とある。
阿仏尼は西行が天竜川で武士に「人数が多い」と舟を降ろされ、鞭で打たれた逸話を思い出し、心細くなった。でも阿仏尼からすれば、天竜の渡りの「いと心細し」は単なる不安ではなく、かつて西行が渡った川を自分も渡ることにたいする感慨もあったかもしれない。