2025/02/24

忘却の日々

 土曜、二週間ぶりの西部古書会館。『きしゃ 汽車 記者の30年 レイルウェイ・ライター種村直樹の軌跡』(「情報ステーション」編集部、二〇〇三年)、『地図 空間表現の科学』(特集「井上ひさしの文学と地図」、日本国際地図学会、二〇一一年)、大阪鉄道管理局の国鉄の定規(二十四センチ、制作年不詳)など。今回は地図、鉄道関係の本が充実していた。

『きしゃ 汽車 記者の30年 レイルウェイ・ライター種村直樹の軌跡』は「レイルウェイ・ライター30年の歩み」という年譜が五十八ページもある。
 一九三六年三月滋賀県膳所生まれ。滋賀に生まれ育ち、一九五八年、京大在学中に家の都合で京都に転居。翌年、毎日新聞大阪本社入社、同年、高松支局勤務(天神前に下宿)。一九六一年、大阪本社社会部、一九六六年中部本社報道部。そのあと東京本社社会部勤務を経て一九七三年三月、毎日新聞社退社。フリーのレイルウェイ・ライターになる。三十七歳。

 種村直樹の子ども(長女・次女)の名前が「ひかり」と「こだま」と知る。鉄道ファンの間では有名らしい。種村直樹の自伝風の作品を読んでみたくなった。気長に探す。

 日曜、大和町八幡神社のち妙正寺川、マルエツ中野若宮店に寄り、鷺盛橋を渡って早稲田通りを散歩する。鷺盛は「ろせい」と読む。何度となく渡っている橋なのに、ずっと「さぎもりばし」とおもっていた。
 鷺宮に「さぎプー」というご当地キャラクターがいることを知る。
 鳥のマスコットを見ると、つば九郎のことを考えてしまう。

 半年前、一年前くらいに自分が何をしていたのか。何を忘れ何をおぼえているのか。十年一日のごとく同じような日々を過ごしていると、忘却のスピードは早まるばかりだ。せめて読んだ本のメモくらいはしておきたいと考えているのだが、それも忘れる。

 年をとるにつれ、身体の感度が衰える。たとえば喉の渇きが鈍くなる。冬のあいだ、コタツで本を読んだり、仕事をしたりしていると、目がかすんできて、手のひらがしびれてくる。軽い脱水症状か。そうなる前にお茶かなんか飲めばいいのだが、つい忘れる。

 散歩中、けっこう汗をかいたなとおもっても、水分補給せず、そのまま歩き続けてしまう。これもよくない。
 喉が渇いてなくても水を飲む(もちろん飲み過ぎないよう注意する)。疲れてなくても休む。

「体を声を聞く」みたいな教えが好きなのだが、年をとると体感が誤作動を起こしやすくなる。若いころもしょっちゅう誤作動していたのかもしれないが、気力や体力で乗り切れた。中年老年はそうもいかない。

 四十代以降、文章もケアレスミスが多くなった。たぶん読み間違えも増えている(時系列や人名を混乱しがち)。書く速度と読む速度を落とそうと心がけているが、それもすぐ忘れる。

(付記) 今回も「渇く」を「乾く」と書いていた。訂正した。

2025/02/18

鳥瞰図絵師

 先週、神保町散策。神田伯剌西爾でマンデリン。新刊書店、古書店をまわる。
 悠久堂書店の店頭ワゴンで『別冊太陽 大正・昭和の鳥瞰図絵師 吉田初三郎のパノラマ地図』(平凡社、二〇〇二年)を買う。

 初三郎の年譜、一九一二(明治四十五)年が興味深い。関西美術院の鹿子木孟郎院長が「多彩な才能を持ちながら洋画修業に専念できなかった初三郎」にたいし、「洋画界のためにポスターや壁画や広告図案を描く大衆画家となれ」と指導した。この助言が転機となる。初三郎、二十八歳。
 翌年、京阪電鉄の「京阪電車御案内」を作成する。たまたま京都を旅行中の当時の皇太子(のちの昭和天皇)の目に止まり、「これはきれいでわかりやすい。東京に持ちかえって学友に頒ちたい」と絶賛。京阪電鉄は「京阪電車御案内」を皇太子に数部献上する。そのことを飛報で知らされた初三郎は「図画報国」の信念を抱き、鳥瞰図絵師の道を歩む。

 初三郎、もともと洋画家を目指し、鳥瞰図で才を開花させた。おそらく最初から地図作りに取り組んでいたら、まったく別の画風になっていたにちがいない。二十八歳の初三郎に「広告図案」をすすめた鹿子木も慧眼だった。鹿子木は「かのこぎ」と読む。

 鹿子木孟郎は一八七四(明治七)年十一月、岡山生まれ。一九四一年四月没。
 三重県立美術館のサイトに「津の鹿子木孟郎」(荒屋敷透)という記事があった(「友の会だより」一九九〇年十一月十五日より)。
 鹿子木は一八九六(明治二十九)年九月、三重県尋常中学校(現在の津高校)の図画の助教諭として赴任した。
 鹿子木孟郎の兄・益次郎が同中学校の舎監をしていて、その縁で助教諭になったようだ。益次郎は孟郎が絵を勉強するための援助をしていた。
 鹿子木に「津の停車場(春子)」(一八九八年)という作品(油彩)もある。津中時代、鹿子木は鉛筆画の臨本(教科書)も作っている。

 吉田初三郎に絵の指導をしていたころ、 鹿子木孟郎は三十七、八歳。今の感覚だと若くおもえるが、明治末だとすでに大御所みたいな感じだったのだろうか。

  三重県立美術館の鹿子木孟郎の図録を日本の古本屋で注文するかどうか迷っている。

2025/02/12

川沿いの道

 寒い。日課の散歩も目標の歩数(晴れの日一万歩、雨の日五千歩)未満の日が続く。生活のリズムが昼寝夜起になっている影響もあるかもしれない。足りない分、家の中をうろうろする。冬だから仕方ない。

 久しぶりに中野区の大和町界隈を散策する。昨年十二月に引っ越した仕事部屋は大和町である。ポストに中野区の広報誌などが入っているのを見ると、中野区民(じゃないけど)になったような気分になる。

 仕事部屋の掃除をした後、妙正寺川沿いの道を歩いてマルエツ中野若宮店で買物する。

『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』(中野区企画部広報課、一九九〇年)によると、高塚墳、横穴墳など、古墳時代の遺跡が妙正寺川周辺で見つかっているらしい。そのころから川の流れは変化しているのだろうか。

「弥生式時代の遺跡」という囲み記事には「区立神明小学校内と中野刑務所内から弥生式時代の終末、あるいは古墳時代の初頭と考えられる竪穴住居跡が発見されました」とある。中野区弥生町の町名は弥生時代の「弥生」からきていると知る。
 
 中野区は妙正寺川のほかに江古田川なども流れている。どちらも大きく蛇行しているので、川沿いの道を歩くと楽しい。妙正寺川、江古田川のあたりは中世の古戦場の跡もあるようだ。

『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』は二十頁くらいの薄い冊子だけど、まだ行ったことのない名所がいろいろある。

(付記)神明小学校を啓明小学校と勘違いしていた。あと近所の飲み屋の常連のHさんに弥生時代の「弥生」は文京区の弥生町から来ていると教えてもらった。

2025/02/07

精神の速力

 レコードを擦り切れるほど聴く。本に穴が空くほど読む。デジタルの時代にもそういう感じの言い回しがあるのか。散歩中、そんなことを考えていた。
 すこし話はズレるが、イントロが短く(なく)、いきなりサビから始まる曲が増えた。文章指導でも「最初に結論を書け」という教えがある。ライトノベルだとあらすじがタイトルになっている作品も多い。

 わたしはなかなか本題に入らず、ぐだぐだ遠まわりして、しかもオチがないような小説や随筆が好きなのだが、そういう作品は今の主流ではない。世の中には一定数、主流や流行に背を向ける傍流好きの人がいる。わたしもそうだ。

 五十五歳の今おもうのは擦り切れるほど聴いたレコードや穴が空くほど読んだ本はたくさんあるわけではない(人生の時間は限られているので)。でもだからこそ、それらは自分の宝になる。好きだから何度も聴いたり、読んだりしたものもあれば、惰性というか安心感を得るために聴いたり読んだりしているレコードや本もある。

 中村光夫著『自分で考える』(新潮社、一九五七年)に「精神の速力」というエッセイがある。わたしにとって、中村光夫はそれこそ穴が空くほど読んだといえる評論家である。

《柳田国男氏が、現代人の口の利き方はむかしに比べてよほど早口になったといい現代語の生煮えな混乱のひとつをそこに求めていましたが、これは確かに興味のある事実で、僕等は早口、早書、早読を早飯、早糞にまさる美徳に数えなければならない乱世に生活しています》

 そして数行後、中村光夫はこんな言葉を綴っている。

《或る書物の要約を素早く把む才能は、これを精読して深く理解する根気より、現代ではずっと尊ばれます》

《いつも忙しく自分を表現し、また他人の表現も慌ただしく受取る習慣が、いつのまにか僕等の精神に或る不自然な姿勢を強いていないかということです》

「精神の速力」は七十年近く前のエッセイである。今の世の中はさらに加速している。

 わたしは二十歳前後に古本が好きになり、近年は街道歩きもはじめた。若いころから世の中のテンポと合っていなかった。
 ゆっくり本を読み、ゆっくり歩き、いっぱい寝る。それが今の自分の望みである。急いだところで終わりが近づくだけだという諦めもある。