三月温暖(また寒くなるという予報も)。部屋の掃除中、松本清張著『実感的人生論』(中公文庫、二〇〇四年)が出てきたので、パラパラとつまみ読み。同書の「小説に『中間』はない」にこんな一節があった。
《作家の才能の素質は、言葉の便利の上でいえば、私小説的な構成の型と、物語的な構成の型とに分けてよかろう。これは作家の個性の宿命である》
この傾向は書き手だけでなく読み手にもあるようにおもう。たぶんわたしが私小説や身辺雑記を好むのは、そういう「型」が自分に合っているからだろう。
自問自答がしたくて本を読むことがある。物語を読むときは、ストーリーを追うことに専念したいので、自問自答が少なくなる。もちろんそれはそれで楽しい。現実逃避は嫌いではない。
「私小説的な構成」と「物語的な構成」——仮説としてはいつ読んだかも関係しているかもしれない。
十代のころ、家や学校など環境面の不具合で悩んでいたときは「ここではないどこかへ」誘ってくれるような荒唐無稽な話を好んでいた。
私小説に傾倒するようになったのは二十代後半——仕事がなく、金がなく、人間関係その他失敗続きの時期である。私小説の「私」は不遇なことが多いので、その考え方、感じ方がよくわかるし、身につまされるわけだ。気分も沈みがちだから、長い作品が読めない。その点、私小説は短編が多い。それもよかった。
わたしの場合、尾崎一雄がそうだった。作家ごとに生活の立て直し方、あるいはダメになり方がある。わかっていてもどうにもならない。どうにもならないことは諦め、どうにかなることに活路を見出す。どう力を抜くかみたいなことも病気がちな作家に学ぶところが多かった。学んだからといって、生活が向上するわけではないが、ちょっと楽になった。