2025/12/16

第三の新人(一)

 五十代になると、低迷した状態が年相応というか、当たり前すぎて、わざわざ書いてもしょうがない……という気分になる。最近、散歩の話ばかり書いているのは、そんな心境の変化もある。

 すこし前に『群像』(一九六四年三月号)を荻窪の古書ワルツの店頭の均一のカゴの中にあった。百十円。座談会「第三の新人」(山本健吉、梅崎春生、小島信夫)が収録されている号である。編集人は大久保房男。
 それにしても冬は外の均一で古雑誌の目次を見るのがつらい。手がかじかんでページをめくるのも一苦労だ。

《梅崎 「第三の新人」という名前をつけたのは山本さんですね。
 山本 それについては何べんも書いたことがあるが、いろいろあるので、あらためて申しますが、安岡君の「ガラスの靴」は昭和二十六年ごろでしたね、あのころ「文學界」の編集部から「第三の新人」という題で原稿の依頼があったので書いた。だから命名したのは私じやなく、「文學界」の編集部なわけだ。それは、その前の年の新年号に臼井吉見さんが「第二の新人」という題で書いたので、その翌年に私のところに「第三の新人」という題で書いてくれといつてきたわけだ》(※原文は旧漢字。以下の引用も)

「第一の新人」は武田泰淳ら第一次の戦後派。臼井吉見の「第二の新人」は三浦朱門、安岡章太郎、あと安部公房、堀田善衞も入っていたそうだ。
 二十代のころのわたしは「第三の新人」の遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介の軽エッセイが好きで古本屋で見つけるとその日のうちに読んでいた。また吉行淳之介の対談集に出てきた作家の本を探しているうちに読書の幅が広がった。文章、文体の好みは二十代のころに定まったようにおもう。

 梅崎春生は第三の新人について「もう一つ、ここには二つの派があつて、吉行、安岡、遠藤などというのはみな病気になつている」と……。
 戦争が終わっても病気は続く。生死に関わるような深刻な病気を書くさい、「わざとおかしみとして出している」。そこに特色がある。
 また山本健吉は梅崎春生を「第三の新人」の先駆者といい、そして井伏鱒二の影響も相当あるだろうと分析する。小島信夫は山本の言葉を受けて「ありますね。それからみなの好きな作家は牧野信一、嘉村礒多……」と「第三の新人」の作家と私小説の関係を語っている。

 梅崎春生は梶井基次郎、内田百閒を愛読していたが、「第三の新人」の読書傾向(とくに吉行淳之介)と重なる。井伏鱒二もそうだろう。
 二十代の十年、わたしは「第三の新人」から私小説という流れで本を読んでいた。今おもうと、健康ではない、頑強ではない人の言葉、世の中になじめない人のための知恵を求めていた——といえるかもしれない。

 この座談会で興味深く読んだのは次のやりとり。

《山本 自分を道化にする気持が最初から「第三の新人」にはあつて、私はあの連中はみな卑下自慢だといつたんだけど、いまではそれはもう通り越しているような気がしますよ。
 梅崎 それから個人差が大きくなつているし、団結はなくなつているでしよう。
 小島 たしかにそういう卑下自慢の状態じやなくなつて、みな変わりつつありますね。それは卑下していい社会的地位じやないですからね。それもあると思います。安岡君がいつか言つてたということを聞いたんだけれども、要するに芥川賞をもらうまでのことでないとどうもうまく書けないという》

(……続く)