十二月十七日(水)、十八日(木)、二日連続、東高円寺散歩。青梅街道はまだイチョウの葉が残っている。葉が散りやすいイチョウ、散りにくいイチョウがあるのだろうか。
高円寺図書館——週によっては木曜日が休館日のこともある。すぎはち公園を歩いて蚕糸の森公園、梅里公園、セシオン杉並などを回る。セシオン杉並は三階の窓から西のほうの山がよく見える。
『群像』(一九六四年三月号)の座談会「第三の新人」(山本健吉、梅崎春生、小島信夫)の続き。
小島信夫の「卑下していい社会的地位じやない」という言葉が引っかかった。
小島信夫は一九一五年二月生まれ。この『群像』の座談会のときの年齢は四十九歳。小島も「第三の新人」の作家だが、第一次戦後派の梅崎春生と同年同月生まれである。
安岡章太郎は一九二〇年四月(戸籍上は五月)、遠藤周作は一九二三年三月、吉行淳之介は一九二四年四月生まれ。
芥川賞受賞は安岡が一九五三年、吉行が一九五四年、遠藤が一九五五年——座談会のころ、だいたい十年選手である。
年齢もそうだが、作家としての地位を確立していくうちに「自分を道化にする」ような「卑下自慢」がきつくなる。
いっぽう自分のだめさ、弱さに滑稽味を加えて表現するのは、文芸の伝統ともいえる。弱音、愚痴を軽妙に読ませる。そこに文章技術の粋がある。
吉行淳之介著『ぼくふう人生ノート』(集英社文庫、一九七九年。単行本はいんなあとりっぷ社、一九七五年)に「恥」というエッセイがある。
《十代後半、私は劣等感の塊になっていた。当時、時代は軍国主義一色に塗り籠められていたので、いわゆる「芸術」の分野は蓋をされていた、といってよい》
《とにかく、何をやっても駄目だった。当時自分ではまだ気付いていなかったいくつかの特質は、どの社会分野にも不適合だった》
吉行淳之介が五十歳のときのエッセイだ。
すでに文壇において「大家」となりつつあった吉行淳之介は、それでも「若い頃の劣等感とほとんど同じ性質の劣等感を持つことがしばしばある」と書いている。
《この感情は、私が物を書き続ける限り、私の背後で影になってつき纏うだろう。その劣等感が私の中で消失するときは、私が物書きでなくなったときであろう》
小島信夫の座談会で安岡章太郎が「芥川賞をもらうまでのことでないとどうもうまく書けない」とこぼしていたことにたいし、山本健吉は「そういう点でマンネリズムが出ていますね」と評している。
同じ題材をくりかえし書いているとどうしても鮮度が落ちる。わたしは同じ話ばかり書く作家が好きだし、自分もその傾向がある。
この日の深夜、近所をちょこっと歩いて家に帰ったら万歩計の数字が一万歩ぴったりだった。万歩計歴十七年で初である。
(了)
(追記)小島信夫は梅崎春生より年上と書いてしまった。二人とも一九一五年二月生まれ。梅崎春生のほうが二週間くらい早い。訂正した。