2023/04/09

竹内浩三の下宿

 昨日、荻窪の「本で旅するVia」で岡崎武志さんとPippoさんのトークショーを見る。終わりごろ、竹内浩三の東京での下宿の話になり、Pippoさんは「江古田」といっていたのだが、わたしは「高円寺」ではないかと……。でも打ち上げ中、自信をなくす。勘違いかもしれない。

『定本 竹内浩三全集 戦死やあはれ』(藤原書店、二〇一二年)所収の「天気のよい風船」(冬休み日記 別題——タケウチコウゾーについて)に「ボクが浪人中の一九三九年七月に上京するときに、トシちゃんがハルキにボクの下宿の世話をたのみ、かつまた、ボクのカントクをたのんだ」とある。トシちゃんは浩三の兄、ハルキは兄の親友で中学の二年先輩。

 そのころハルキは高円寺に住んでいた。浩三は「それで下宿もハルキの下宿のすぐちかくにきめ、めしは同じうちにたべに行くことになった」と書いている。

《ここでボクのコーエンジ生活がはじまるわけである》

 その後、ハルキはコーエンジからセンゾク池に引っ越す。(おそらく一九四〇年の秋ごろの)コーエンジ生活は「不健康であった」と回想——。

《現在はなかなか健康である。めでたいと思う。エコダへ移ったのがよかったのである》

「天気のよい風船」は創作の部分もありそうなので下宿先の証拠としては弱い。ただし一九四〇年ごろの姉や兄への手紙に「通学」のための交通費が月六円かかると書いている。下宿先が江古田なら大学まで徒歩で通える。

「高円寺風景」には板橋のY君と池袋で食事して「省線で高円寺に帰る」という記述あり。

『伊勢人』(特集「竹内浩三が見たNIPPON」二〇〇七年八・九月号)は、浪人中から大学時代に送った姉宛の「手紙の住所をもとに、浩三が下宿していた高円寺界隈を歩くと、現住所の高円寺北、庚申通り商店街や純情商店街の一帯で、昔ながらの雑貨店や金物屋などが点在していた」と記す。

 全集所収「わが青春の竹内浩三」(中井利亮/中学時代からの浩三の友人)に「江古田の日大芸術学部近くの下宿は十畳の広さだが、足の踏み場もなく、夥しい書物が取り散らかり、垢じみたシーツの万年布団はポッカリと大きな煙草穴をあけていた」とある。

 おそらく浪人中と大学入学してしばらくは高円寺に住み、そのあと江古田界隈に引っ越したというのがわたしの推測である。

2023/04/05

新井宿の店

 火曜日、中央線で東京駅まで出て、京浜東北・根岸線快速でJR大森駅へ。かつて大森界隈には馬込文士村があった。
 駅前の八景天祖神社に寄ってからカフェ「昔日の客」に行く。「昔日の客」は古本屋の山王書房店主・関口良雄さんの息子の関口直人さんの店。
 関口直人さんはいつお会いしても明るい。
 尾崎一雄の四十周忌ということで貴重な署名本、写真、直筆原稿などを展示していた。
 尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)の全集未収録作「狸の説」は関口直人さんに教えてもらった。

《東京大田区の、旧式呼称で新井宿に住む古本屋の関本良三が、大崎五郎未亡人から、今戸焼の狸を貰ったというハガキをよこした》

 尾崎一雄は尾崎士郎と共に作っていた『風報』という雑誌が縁で関本良三と知り合う。関本良三は関口良雄、大崎五郎は尾崎士郎がモデルだ。「狸の説」には関本が『古書通信』に発表した「正宗白鳥訪問記」を気にいり、許可を得て『風報』に転載した経緯が記されている。
 ちなみに関口良雄著『昔日の客』(夏葉社、二〇一〇年)所収「正宗白鳥先生訪問記」は『風報』(一九五九年十二月)が初出となっている。

 私小説や昔の古本屋の話をしているうちに一時間以上経っていた。知らない人名がいろいろ出てきた。
 岡田睦が山王書房や尾崎一雄のことを書いた随筆も見せてもらう。

 帰りは臼田坂を通り、都営地下鉄の馬込駅まで歩く。大森界隈は古東海道が通っていた。

2023/03/31

桝渡式

 三月三十一日、尾崎一雄の命日(冬眠忌)。一九八三年三月に亡くなって四十年。「昔日の客」の関口直人さんから電話あり。
 この日、高円寺駅ガード下の「高円寺マシタ」がオープンしたので、散歩のついでに見に行く。そのあと桃園川遊歩道、馬橋稲荷神社、馬橋公園で桜を見て、昼すぎ西部古書会館(初日は木曜だった)。横山高治著『伊勢平氏の系譜 伝説とロマン』(創元社)を買う。刊行年は一九八五年三月——壇ノ浦の戦いの八百年後に出た本である。
 著者は一九三二年三重県津市の生まれ。元読売新聞の社会部記者だった(刊行時のプロフィールは大阪本社編集局連絡部次長)。三重県関係の史書をたくさん書いている。

『伊勢平氏の系譜』の目次に「南島町の八ガ竃」という項がある。

《この八ガ竃伝説は「平家の落人部落」の由来を伝える伝説もさることながら古式床しい民俗行事の「桝渡式」で有名である》

《桝渡式というのは、塩を焼いて暮らしていた時代に用いていた古い桝と古文書三十通からなる八ヵ竃の「宝物」を受け渡しする行事だが、この古文書は南北町時代から紀州藩領だった江戸時代のものまでという貴重な文書。この中にいわゆる平家の系図一点が含まれているのである》

 平維盛の庶子、行弘とその一党は平家一門が壇ノ浦で滅亡後、この地に入った——というのが「八ガ竃伝説」である。
 横山氏は「伝説の確証はきわめる由もない」としている。書き方が慎重で、勉強になる。

 わたしも各地の伝承、伝説の類は半信半疑というスタンスである。歴史上の人物の経歴も時代によって変わることがある。古い系図の類もあやしいものが多い。でもちょっと信じたほうが、想像が広がって面白い。

 平維盛そのものがいつどこで亡くなったか、数々の説があるのだ(有名なのは和歌山の那智の滝で入水した)。「平維盛の庶子、行弘」が実在したかどうかは定かではないが、南島町に塩を作る方法を伝えた人物はいる。壇ノ浦から南島町の間には塩の名産地がたくさんある。昔は土地ごとに塩の作り方がちがったから、その製法を調べたら、南島町に流れついた一族がどのあたりから来たのか、あるていど絞りこめるかもしれない。