2007/02/09

残るもの

 ここ数日、飲みすぎてからだがだるい。
 気分が沈んでいるとき、自分を立て直すのは一日がかりの仕事だ。CDを聴きながら、友人のみやげのハワイのコーヒーを飲み、洗濯して、部屋を掃除し、散歩に出かける。
 高円寺駅に建設中のホテルの一階に「黒酢バー」という看板が気になる。誰が利用するのだろう。
 駅前まで歩き、いつものように都丸書店(支店)に行く。もはや習性。足が勝手にむかってしまう。
 店内に吉田健一著『乞食王子』(新潮社、昭和三十一年)があった。講談社文芸文庫にもはいっているが、わたしは新書版のサイズの本に目がない。黒い表紙もかっこいい。

 この本の中に「文士」と題するエッセイがある。

 戦争中、文学報告会の集まりで小林秀雄が文士は不言実行だといった。

《口舌の徒と思われ勝ちな文士が不言實行の人間であるというのは、つまり、それが口舌の徒と文士というものの違いなのである。戦争中を喋って通し、今日でも喋るのを止めない連中の言葉に就て直ぐに感じることは、それがそこに出て來る時代の流行語を少しばかり變えればいつの時代にも當り障りなく通用し、その意味で全く抵抗を缺いていて、實質的には何も言えてないということである。
 これを、眞實の言葉がいつの時代にも通用するということと混同してはならない。
 時代には、それと一緒にすべてのものを流し去る作用があって、人の心に殘る言葉を吐く爲めには、まずこの作用に逆うことから始めることが必要であり、眞實の言葉は常にそういう時代に對する抵抗を通して我々に語りかける》

 時代に抵抗する。これは簡単なことではない。わざと時代に抵抗したものは、やっぱりその時代といっしょに流されてしまう。
 新しい表現が古くなるというのは珍しいことではない。表現にも旬がある。そのときどきの時代の追い風のようなものがあり、風がやんだとたん、あるいは向い風になったとたん、急につまらなくなってしまう。逆に、向い風、あるいは無風状態の中で作られたものが、時をへても、まったく古びていないということもある。

《時代に逆らうというのは、先ず自分に逆らうことであり、自分に逆って行き着いた自分の奥底に言葉を見付けることである》

 時代に抵抗するというのは、時代に迎合しないということか。自分に逆らうというのは、自分を疑うこと、かっこつけないこと、借り物の思想をふりかざさないこと……いろいろおもいあたる。時代への抵抗にたいして、自分自身の考えにも内省がなければ、薄っぺらな言葉になってしまう。
 時代にたいしても、そして自分にたいしても「これでいいのか」と葛藤する。いや、この解釈も疑ったほうがいい。

「文士」につづく「水増し文化」というエッセイには、こんなことが書いてある。

《今日、文學は隆盛であると言われて、確かに文士の中のあるものは自家用車を持つ位にまではなった。併し要求されているのは文學ではない。文學の觀念だけは流行しているから、この名稱で讀者を釣る一方、實際に文士が書くことを頼まれるのは、文士が書いたものだから文學だという程度にしか文學と縁がない、或は、なくても少しも構わない、手っ取り早くいえば、讀み易いものなのである。そしてこの讀み易いというのが高校生、つまり、理解力が昔の中學生にも劣る人間を目標に置いてであることも、大概の注文に付け加えられている》

 今はもっと読みやすいものが求められている。自分で考えたり、調べたりする手間を惜しんで、すぐわからないと文句をいう人を目標にしている。わかりにくいものを書くと、自分でもよくわかっていないことを書いていると揶揄されることもある。時代に抵抗するために、わざと難解に書けばいいというものでもない。

 心に残る言葉というのは、かならずしもわかりやすいものではない。
 そこにたどりつくまでに苦労し、その苦労が報われた喜びがあってはじめて心に残ることもある。なにかしら、ひっかかりをおぼえ、逡巡する。

 吉田健一のおもしろさは、一読してすかっとわからないところにある。しかし考えさせられる。なにか大切が書かれているような雰囲気がただよっている。わからない一行、あるいは数行について何日も考えつづける。

 自分に逆らうということが、しばらく頭から離れそうにない。