2007/02/01

勘と安定

 なにかを決断するとき、わりと勘に頼るほうだ。ただその勘が冴えているなとおもうときと鈍っているなとおもえるときがある。
 今、勘がさえているのかどうか、そのときにはわからない。
 勘が冴えているときは、行動に迷いがない。
 勘が冴えないときは、停滞している。

 いや、そもそも勘を働かせる必要のない、大きな決断をする機会のない、退屈な日常が続いているだけなのかもしれない。
 いやなことをやめるとき、頭でかんがえるよりも、全身が「もうだめだ」と悲鳴をあげる。それは勘ではないかもしれないが、そういうときは、頭よりもからだの反応にしたがう。

 日常生活を維持していくためには、ガマンも大切だ。自分の感情や気持を抑え、なんとなく、いやだなあとおもうこともやりすごす。あるいはなかなか成果の出ないことでも、あきらめず時間をかけて、すこしずつ力をつけることによって、以前はできなかったことができるようになる。ガマンを続けていると、あるていどはからだの悲鳴をごまかすことができるようになる。それを続けていると、だんだん勘が鈍ってくる。勘が冴えるような状態を作るためには、なるべくガマンしないほうがいい。まったくガマンすることをやめたら、今の生活は続けられなくなる。なんか堂々めぐりだ。

 勘が鈍っているときは、雑念にとらわれている。
 頭がごちゃごちゃしている。

 勘、直感というのはなにか、言葉で説明するのはむずかしいのだが、大人よりも子どものときのほうが、勘が冴えていたという気がする。
 齢をとると、いろいろ失敗や試行錯誤を繰り返しているため、つい迷いが生じやすくなる。何事にも慎重になる。それで勢いがなくなる。
 逆に、勢いを失ったおかげで、安定を得ているともいえる。
 しかし安定は勘を鈍らせる。

 ここ数年、勘が鈍っているときは、囲碁や将棋の棋士の本を読む。
 勘、直観あるいは直観、閃きということに関して、彼らほど骨身を削って考えている人たちはいないとおもうからだ。

《二十代のイキのいい頃、私の打ち筋は「異常感覚」と観戦記者に書かれた。明治時代の棋譜から研究し、正統派を自認していた私は不本意だったが、今思えば、確かに奇抜な手を打っている。
 だが、それも、日常、しっかり勉強していたからこそ瞬間的に閃いたものと思う。基本がなければ応用はできない。分厚い基盤が築かれた上で初めて、自由自在な動きが可能になるのだ。
 相撲で稽古十分の力士が絶妙な離れ業を成功させ、「体が勝手に動いた」などとコメントすることがあるが、あれに近いかもしれない》(藤沢秀行著『野垂れ死に』新潮新書)

 大酒飲みでギャンブルで億単位の借金をつくり、大病を克服し、棋聖戦六連覇をはじめ、数々の囲碁界のタイトルを獲得してきた棋士の言葉である。
 閃きのもとには、日々の修行、稽古があるというわけだ。
 ただ勝負の世界における閃きと日常生活や人生の決断にかんする閃きは、同じなのかという疑問が残る。

 勝負するべきか、自重すべきか。
 生きていれば、経験則ができる。その経験則にしたがって、決断、行動しているうちに、ものごとを深く考えなくなる。そしてちがう経験則で生きている他人を自分の経験則ではかるようになる……というのは、わたしの経験則なのだが、安定した状態というのも、深く考えないですむという意味では、それとちょっと似ている。

 どうなるかわからないけど、なんとなくおもしろそうだ、楽しそうだという感覚で行動に移してしまえる人がいる。一見、無茶なことでも、動くことによって、新たな局面に出くわす。そこで学ぶことは、すくなくともわかっていることを淡々とこなすよりも、刺激がある。
 勘で動く人は、わかる手前で、飛躍する。それこそ、からだが勝手に動いてしまうような状態になっているのだとおもう。わかったら、つまらない。ただ、わからないけど、その選択の先には、いくつも未来がある。

 自分の勘を試せるかどうか。その賭けを避けるような人生だけは送りたくない。
………いかん、眠くなってきた。今日はここまで。

(追記)
 勘については、科学、心理学でもさまざまな説が飛び交っている。
 たとえば、勘が当るというのは錯覚という説。ようするに、勘が当ったときのほうが印象に残りやすく、外れたときのことは忘れやすい(ギャンブルも勝ったときのほうが、負けたときよりよくおぼえている)。また熟慮の末に導き出したつもりの結論も、実は最初にひらめきがあって、後追いで理屈をつけたにすぎないという説もある。それから言葉や論理で理解するよりも、勘のほうが、視覚、聴覚、嗅覚、過去の経験など、さまざまな感覚を駆使しているため、正しい判断を下していることが多いという説もある。

 安定すると勘が鈍るというような気がしていたが、余裕がないと判断が鈍ることも多い。