2008/07/02

明るい風

 旅先で買った本が届く。
 当たり前のことだけど、二十年くらい来る日も来る日も古本屋や新刊書店に行ってるのに、けっこう読んでいるつもりの作家の本でも知らない本がたくさんある。

 わたしは河盛好蔵の随筆は好きで、古本屋で見つけるとかならず手にとる。でも『随想集 明るい風』(彌生書房、一九五八年刊)という本のことは知らなかった。
 上盛岡のつれづれ書房で見つけた。
 目次を見たら「太宰治の思い出」や「阿佐ケ谷会」といった題の随筆がはいっている。熊本日日新聞の連載だった。

「本を買うこと」というエッセイには、河盛好蔵は幼少のころから本を読むのが好きで、たえず古本や新刊書を買いこんでいたと話が出てくる。
 蔵書は戦災でほとんど焼けてしまったが、戦後また集め出し、狭い家からはみだしそうになっている。どんなに長生きしても読みきれないくらいの量だという。
 河盛好蔵はちょっと反省する。

《こんな風に本を買いこむのは、ただその本が自分のものだという自己満足のためにすぎないのではあるまいかと。守銭奴が金をためること自体に悦びを感じているのと同じ心理ではないだろうかと。たしかにその傾向があることは否めない》

 この文章を盛岡と郡山から届いたダンボールをあけながら読んだ。
 河盛好蔵はさらにこんなこともいう。

《だが、考えてみれば、そういう悔いを感じるようになったこと自体が知識欲の衰えを示すのかもしれない》

 たまにそのことを考えているときに、そのことについて書いてある本を買うということがある。
 郡山からの帰りの電車の中で、知識欲や好奇心が衰えてきているのではないかとずっと考えていた。家でずっと本を読んでいると、だんだん未知のものに興味をおぼえなくなる。
 毎日同じような生活をしていると、新しい知識を必要としなくなるからかもしれない。

『明るい風』は、なんてことのない話がけっこう多い。

「呼び水」という題の随筆がある。
 河盛好蔵は、仕事の前にトランプの独り占いをしていた。「一種の頭脳のウォーミングアップ」のつもりだった。

《ところが、誰でも知っているように独り占いというのはすぐ成功する場合と、何度やってもうまくゆかないときとがある。そうなると、半ば意地になって、仕事の方はそっちのけで、いつまでもトランプを並べているために、思わず時間の経つのを忘れてしまう》

 わたしはいつもパソコンのゲームの「上海」をやったり、将棋の「次の一手」問題を解いたりする。
 あと皿(コップ)洗いとガス台の掃除もする。換気扇や風呂の掃除をはじめてしまうこともある。