2008/07/24

手の読書

 月末、仙台に行く。火星の庭のイベントがあり、その後、福島にいる漫画家(漫画研究者)のすずき寿ひささんと会う予定。しかし月末は原稿のしめきりがある。パソコンを持って旅先で仕事をすることは避けたい。そんなことをしたら旅情が台なしだ。というわけで、今、「しめきり前渡し」に挑んでいる。

 火星の庭の補充用の本を買うために夜、自転車で古本屋をまわる。次の九月の外市、さらに十月に大阪某所で開催予定の古本イベントの準備もある。
 この数ヶ月、これまでの人生でいちばん古本を買っているかもしれない。本を買って、シールをはがし、汚れをおとし、線引や書き込みがないか頁をめくり、パラフィン紙をかけて、値札を作る。本を読むのは電車の中と喫茶店に行ったときだけになっている。
 なんというか「目」ではなく「手」で本を読んでいる気分だ。
 読んだ本の内容は、九割くらい忘れてしまうといわれている。ほとんどおぼえていないといってもいい。でも手にとった本のことは、ぼんやりと記憶に残る。本のサイズや重さなど、知らず知らずのうちにおぼえた感触は、本を探すときに重宝する。

 ずっと四六判と文庫のサイズの本を中心に蒐書していたので、大判の本、新書サイズの本はまだまだ手でふれている量が不足している。知らない本がたくさんある。最近、大判の本と新書をちゃんと見ていこうと心がけている。大判の本といっても、画集や写真集ではなく、文学展のカタログや判型の大きな雑誌の作家の特集(とくに追悼号)を探す。

 大きい本のほうが見つけやすいとおもうかもしれないが、逆だ。大判の本は横に積んであって、表紙や背表紙が見えないことも多い。背表紙が見えていたとしても、自分の守備範囲ではないとおもって素通りしてしまう。

 先月、『ザ・開高健 巨匠への鎮魂歌』(読売新聞社、一九九〇年刊)というすこし大型の本を買った。書名は知っていたけど、単行本だとおもいこんでいた。勘違いだ。それでずっと買いそびれていた。いちど買って以来、あちこちの古本屋で目にする。大判の本は置き場所に困るから、なるべく見ないように棚の前を通りすぎていたのだろう。
 永島慎二の『旅人くん』(インタナル出版社、一九七五年刊)は、横長の大きな判型の本なのだが、これもはじめて見たときはビックリした。

 新書も似たようなことがある。
 古本屋で見てはじめて「新書サイズだったのか」と気づくことが多い。これまで単行本、文庫の十分の一も新書の棚を見ていないとおもう。当然、知らないことがたくさんある。

 尾崎一雄著『もぐら随筆』(鱒書房、一九五六年刊)もずっと単行本とおもいこんでいたので見つけるのに苦労した。

『もぐら随筆』には「酒は飲んでも飲まないでも」という随筆がある。尾崎一雄は「酒を飲むと書く息が切れます。僕は、酒を飲む奴は大体一流の作家になれないという持論を持っている。昔から。(中略)酒を飲むと、そこに発散しちゃう。僕の経験です。飲む連中が飲まなかったら、もっと書けるでしょう」といっている。
 もっとも最後には、「飲んでも飲まなくても、それだけのものらしいことは、私自身の場合でも判る。仕方のないことだ」という結論なのだが……。

 月曜から酒を飲んでいない。酒をやめると一日が長い。
 そしてつまらん。