いいことかどうかはわからないが、調子がよくないときや気分が沈みがちなとき、「まあ、そういう日もある」とおもうことにしている。
二日酔いでつらくても、ずっとこの状態が続くわけではない。時が過ぎるにまかせるしかない。
昨晩、あまりにもしんどくて道の途中でうずくまる。たぶん、貧血。電車なら片道二百十円の区間をタクシーに乗って帰る。深夜割増料金で三千円。
「早稲田通りから環七で曲がって高円寺駅のほうに行ってください」
そういうと寝ているあいだに家の近くまで運んでくれる。年に数回しかつかえない呪文である。
月に何日か、捨て試合の日を作る。その日は何もしない、できなくてもいい。ひたすらだらけ、ゴロゴロする。何もしないといっても、部屋の換気と洗濯くらいはする。夕方、ようやくからだが軽くなる。
近所の焼鳥屋でレバーとハツを三本ずつ買い、ひとりで食う。これでどうにかなるのではないか。
二十代のはじめ、仕事の調べもので図書館に行ったとき、古山高麗雄の短篇が掲載されている文芸誌を読んだ。
《寝たり起きたりしている、と言うと、病人のようだが、私はこの部屋でもう十数年来、寝ては起き、起きては寝たりしている。(中略)けれども私は、ここは独房で、自分は独房に幽閉されている囚人で、毎日々々、寝ては起き、起きては寝て、ボケッと過ごしているだけの者のように思われる》(「日常」/古山高麗雄著『二十三の戦争短編小説』文春文庫他)
なぜこの部屋でだらだら過ごす小説に胸を打たれたのか。当時はよくわからなかった。この小説がきっかけで古山高麗雄の作品をすべて読みたいとおもうようになった。
《朝起きて、昼寝をして、宵寝をして、深夜あるいは明方にまた寝たりすることがある。朝酒を飲んで、一寝入りして、また酒を飲んで、また一寝入りする。そういう日もある》
ゴロゴロと寝てばかりいる「日常」にも言葉があり、それが文学になる。これといった盛り上がりのない小説にわたしは救われたのである。自分の書いているものが、地味とかつまらないとか内容がないといわれても気にしないことにした。