2010/09/06

日常

 いいことかどうかはわからないが、以前より、調子がよくないとき、気分がふさぎがちなときに「まあ、こんなときもあるな」とおもえることが増えた。
 二日酔いで動けなくなっていたとしても、この状態がずっと続くわけではない。時が過ぎるにまかせるしかない。

 昨晩、あまりにもしんどくて道の途中でうずくまる。たぶん、貧血。電車なら片道二百十円の区間をタクシーに乗って帰る。深夜割増料金で三千円。
「早稲田通りから環七で曲がって高円寺駅の北口に行ってください」
 そういうと、寝ているあいだに家の近くまで運んでくれる。
 年に数回しかつかえない呪文である。

 月に何日か、捨ててもいい日を作る。その日は何もしない、できなくてもいい、ひたすらだらけ、ゴロゴロする。
 何もしないといっても、部屋の換気と洗濯くらいはする。
 夕方、ようやくからだが軽くなる。
 近所の焼鳥屋でレバーとハツを三本ずつ買ってきて、ひとりで食う。
 これでどうにかなるのではないか。

 二十代のはじめ、意志も気力もなく、だらだらしていたときに、図書館で古山高麗雄の「日常」という短篇が収録された雑誌を読んだ。

《寝たり起きたりしている、と言うと、病人のようだが、私はこの部屋でもう十数年来、寝ては起き、起きては寝たりしている。(中略)けれども私は、ここは独房で、自分は独房に幽閉されている囚人で、毎日々々、寝ては起き、起きては寝て、ボケッと過ごしているだけの者のように思われる》(「日常」/古山高麗雄著『二十三の戦争短編小説』文春文庫)

 なぜ、この小説が好きなのか。当時はよくわからなかった。この小説が好きになって、古山高麗雄の作品に夢中になった。

《朝起きて、昼寝をして、宵寝をして、深夜あるいは明方にまた寝たりすることがある。朝酒を飲んで、一寝入りして、また酒を飲んで、また一寝入りする。そういう日もある。
 ゴロゴロしているという言葉は、そのような私にふさわしい》

 この文章は自らの「日常」を綴っただけでなく、似たような「日常」を送りがちな人に向けて書かれた小説なのである。
 ゴロゴロした「日常」にも言葉がある。
 その言葉が文学になる。

 これといった盛り上がりのない小説を読んで、わたしは文学が好きになった。だから自分の書いているものが、地味とかなんとかいわれても、気にしないことにした。