昨日から仕事はじめ。エンジンかからず。不摂生なりに生活のリズムが必要であることを痛感する。
休み中、天野忠の『余韻の中』(永井出版企画、一九七三年刊)を再読した。
詩人は、京都市左京区の小さな家のトイレの横に、二畳半の小さな書斎を作った。
そしてこんな感慨を述べる。
《勤め仕事がなくなって、念願の自分の部屋がまがりなりにも持てて、そしてまあ何と最低線ギリギリではあっても、その日暮らしが出来る境遇(それを何十年も希求していた)、その境遇にいまやすっぽり自分の躯がはまって、ああ嬉しやと思った瞬間から私という奴はもう何をする、いや何をしたらよいのか、何をしたいとも思わなくなり、そう思うことが今度は罪悪のようにも思えてきて、そして手も足も出ないほど何もすることがないらしいのである》(書斎の幸福)
天野忠は、長年求めていた幸福の中に「別の顔」があることに気づく。
先がわからないということは、不安ではあるが、今の仕事を続けていく上では、わるくないのかもしれない。
わからないから本を読む。わからないから考える。
天野忠は、四十年ちかく勤め人をやっていたが、人見知りと対人恐怖症を克服できなかった。
たぶん、詩人であることをやめなかったからではないかとおもう。
三十代になったとき、その先の十年がまったくわからなかった。目の前の仕事、月々の生活をのりきることに追われているうちに、時間がすぎていく。
長く生きていると、ふとしたはずみに「こういうときはこうしておけばいいんだ」といったかんじの処世のコツのみたいなものを掴んでしまうことがある。
処世のコツに頼りすぎると、世慣れしたふるまいをしがちになる。
たぶん、そこに落とし穴がある。