昔から自分の向き不向きについて考える癖がある。後先考えずに自分の好きなことに邁進できる人や大らかで何でも受け容れる人に憧れる。逆にいえば、そういう人からすれば、わたしはちまちましたことばかり考えているように見えるだろう。
子どものころから「何を考えているのかよくわからない」とよくいわれた。
人の性格は大人になってもなかなか変わらない。でも多少融通がきくようになった。
できないことは人にまかせる。誰かにやってもらう。そのかわり自分ができることに専念する。それでいいのだ、とおもう。
おとなしい性格とそうでない性格、前向きな性格と後向きな性格、あるいは社交性のようなものはどうやって作られるのか。
わたしは文学作品を読みながら、自分と似た人を探している。
私小説には破滅型(無頼派)と調和型(慎重派)がある。
もちろん作風はすっきりと二分されるわけではない。破滅型の中にも調和型の要素はあるし、調和型の中にも破滅型の要素がある。その比重がどちらに偏っているかの問題にすぎない。
誰だって自分の性格をひきずったり背負ったりしながら生きていくしかないわけで、そこからなかなか自由になれない。
先程の私小説作家の類型をもとに、組織や場について考えると、破滅型ばかりだと持続しないし、調和型ばかりだと物事が進展しない。
だから、もうひとつ別のタイプが必要になってくる。
(……続く)