震災から半年もすれば、あるていど原発事故の現状を正確に把握できるようになるとおもっていた。
悲観せず、体調を維持し、仕事ができるだけの余力を残すことを優先してきた。うまくできたかは別として。
水や食べ物に関しても、専門家の意見はわかれる。
今の状況では、いくら風評被害だといっても、不安をおぼえる人は後をたたないだろう。
科学知識のない人間にとっては、どの専門家を信用すればいいのかという問題になる。すくなくとも、わたしは自分の判断に自信がないときは、慎重論を採択しがちだ。もし自分の判断がまちがっていたとしても、なるべく被害を少なくしたいからだ。
半年もすれば、妥当な判断ができるようになっているだろう。
予想は外れた。
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原発は失敗だった。事故の被害はあまりにも大きすぎる。処理方法のわからない放射性の廃棄物を後世に残すことも肯定できない。
そもそも地震国に安全な原発を作ることは無理だったのである。
といっても、原発は莫大な金や時間を費やしてきた国策である。推進してきた立場からすれば、そう簡単に失敗を認めるわけにはいかない。
わたしたちの社会には、引き返したり、途中でやめたりすることは、よくないという価値観がある。
まちがった選択をしても、行けるところまで行こうとしてしまう。わたしも失敗を認めないことに関しては、他人のことをとやかくいえない。
遠回りかもしれないが、原発をなくすには、あやまちを認め、撤退しやすい空気を作ることも必要なのかもしれない。
強い反対と弱い反対もあれば、強い賛成と弱い賛成もある。
わたしは弱い反対、あるいは弱い賛成の立場を大切にしたい。
強い反対が、弱い反対を批判する。そうすると、弱い反対は、中立(関わりたくない)、あるいは弱い賛成に傾いてしまうこともある。
・弱腰で保身で優柔不断な意見を穏やかに受け入れること。
・敵対する意見を頭ごなしに否定しないこと。
二十年前に運動に関わっていたとき、わたしはその逆のことばかりやってしまった。
失敗だったとおもっている。
(……続く)